泣きながら乗った新幹線…津田恒実さんと過ごした日々 30年経っても耳に残る最後の言葉

気迫あふれる投球で“炎のストッパー”と呼ばれた広島・津田恒美【写真:共同通信社】
気迫あふれる投球で“炎のストッパー”と呼ばれた広島・津田恒美【写真:共同通信社】

津田恒実氏と盟友だった川端順氏「よく一緒に出掛けました」

“炎のストッパー”と呼ばれた津田恒実氏は1993年7月20日に脳腫瘍のため32歳の若さで亡くなった。元広島投手で徳島・松茂町議の川端順氏にとっては親しい友人であり、よきライバルでもあった。「いろんなことがありましたよ……。津田に彼女(晃代夫人)を紹介したというか、間に入ってゴタゴタしたこともありましたねぇ……」。座右の銘は「弱気は最大の敵」。伝説の右腕との思い出を明かした。

「津田はあまりお酒は飲まないんですけど、遠征先ではよく一緒に出掛けましたよ。福岡と横浜には共通の店もあったんでね。すごいなって思ったのは試合が終わって宿舎に戻って必ずトレーニングをしてから外出するんですよ。だから出てくるのが遅い。僕なんかすぐ準備ができるんで、いつもだいぶ待たされましたよ」。

 津田氏は光GENJIの「パラダイス銀河」をよく歌っていたという。「歌は下手なんですよ、津田は。非常に不器用でリズム感もあまりなかったなぁ。オフに歌合戦のテレビ番組に一緒に出た時『わし、小泉今日子が好きやから、歌ってよ』って津田に言われて、僕は『艶姿ナミダ娘』を歌ったのも覚えている。津田が一生懸命、拍手してくれてね……。僕の給料が安かった頃、津田が一緒に食べにいこうって、ステーキをおごってくれたこともありましたね」。川端氏は話ながら、いろんな光景を思い出したようだ。

 津田氏と晃代夫人の出会いは高橋慶彦氏の盗塁王のパーティー会場だった。「僕と津田と森脇と清川が慶彦さんに呼ばれた。そのパーティーの最中に津田が僕のところに来て『あの子、ええわ』って言ってきたんです」。大学生のコンパニオン。津田氏が一目惚れしたのが、後に結婚することになる晃代さんだった。川端氏は「津田が自分から、そんなこと言うなんて珍しいな」と思った。そして間を取り持つために動いた。

現在は徳島・松茂町議を務める元広島・川端順氏【写真:山口真司】
現在は徳島・松茂町議を務める元広島・川端順氏【写真:山口真司】

1人でお見舞いに行った福岡の病院で「若いもんに負けたらいかんよ」

 晃代さんに近づき「津田というものがあなたをタイプって言っています。お話でもどうでしょうか」と声をかけた。相手にされなかったが、それを3回ほど繰り返したそうだ。「トイレに行った時、慶彦さんが僕のところに来て『お前なぁ、俺のパーティーでナンパするなよ』と言われた。『違う、違う、津田が……』と事情を説明すると、慶彦さんはトイレから出て、津田の頭をパチンと叩いてましたけどね」。

 パーティーの帰り際も川端氏は「津田が電話番号を聞きたいと言ってますんで」と再アタック。それでも、うまくいかなかったが、いろんなツテを使って、何とか電話番号を聞くことに成功したという。「3回も4回も電話して、やっと出てくれた。僕が電話して、彼女が出たら津田に代わった。津田はもうドキドキもんだったね。何回目のデートの時に津田から『川端さん、一緒に来てよ』と言われた。日産のフェアレディZの後ろに乗った。あれは狭かったなぁ」。

 津田氏のうれしそうな顔、楽しそうな顔が目に浮かぶ。「そんなこともあって、2人は結婚してねぇ」。それがまさか、その数年後に病に倒れ、帰らぬ人になるなんて……。津田氏が福岡の病院に入院している時、川端氏は新幹線に乗って、1人で福岡に行った。「たぶん泣いてしまうと思ったから、誰にも言わずに1人で行った。その時、津田に言われたんです。『若いもんに負けたらいかんよ』ってね。若いもんって佐々岡なんですよ。僕にはその言葉が最後になった……」。

 川端氏は涙を流しながら、帰りの新幹線に乗ったという。「津田が応援してくれているから、佐々岡には負けられないと思った。でも、結局負けましたけどね」。もちろん、津田氏との思い出はほかにもいっぱいある。「不器用だったけど、ボールは速かったなぁ」。炎のストッパーと、ともに闘った日々、ともに笑った日々、すべての日々を川端氏が忘れることはない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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