急造遊撃手の“初舞台”が甲子園 失策連発もバットでお返し…成し遂げた「春の革命」
沖縄県勢初の選抜優勝の中心となった現広島編成部・比嘉寿光氏
2023年夏の高校野球は地方大会が大詰めを迎えているが、広島で編成部編成課長を務める比嘉寿光氏は、かつて甲子園を沸かせた選手のひとりだ。1999年の第71回選抜高校野球大会で沖縄尚学の主将として、春夏を通じて沖縄県勢初の全国制覇を成し遂げた。その後、早稲田大を経て広島入り。プロでは怪我に泣き、初打席初本塁打以外、目立った活躍はできなかったものの、引退後は広報として“カープ女子”の火付け役になるなど、球団に貢献し続けている。そんな比嘉氏の野球人生の光と影を追った。
1999年4月4日、比嘉氏は歓喜の輪の中にいた。選抜決勝戦。沖縄尚学は水戸商(茨城)を7-2で下した。最後は沖縄尚学の松堂大輔外野手がセンターフライを捕球してゲームセット。沖縄県勢にとって悲願の甲子園優勝だ。4万8000人の大観衆の前でやってのけた。一塁側、沖縄尚学応援団の歓声が、万歳が、指笛が鳴りやまない。整列しての校歌斉唱では、歌に合わせての手拍子の音も大きく響いた。
沖縄尚学ナインが飛び跳ねるように一塁側アルプスに向かって、優勝報告。紙吹雪が舞うスタンドはもうお祭り騒ぎだった。閉会式が始まる前には一塁側から歓喜のウェーブが巻き起こり、それは何と三塁側の水戸商応援団までつながって、甲子園を1周した。主将の比嘉氏が優勝旗を手にした歴史的瞬間は、さらに地鳴りのような大歓声が上がった。
「ホント、夢でもこんな夢見ないよなってくらい、僕らからしたらあり得ないことをやりましたね」と比嘉氏は当時を振り返る。前年(1998年)秋の九州大会準決勝で日南学園(宮崎)に6-13で大敗した。「9回までやったけど、コールド負けと同じ7点差をつけられて、ベスト4でも選抜は微妙じゃないかって言われていた。そんな感じでの出場だったし、僕らは1回戦を勝てればいいくらいの気持ちだった。それが優勝ですからね」。
比嘉氏は“急造遊撃手”でもあった。秋の大会までは一塁手だったが「金城(孝夫)監督から『お前は大学に行くんだから、もっと目立ったポジションに行け、ショートをやれ!』とコンバートされた」という。そこから練習して選抜の舞台が公式戦では初の遊撃守備。「甲子園でもエラーをしまくりましたが、使っている方が悪いくらいに思っていた。2、3か月でその辺のショートと同じくらいにうまくはならんよって思いながら半分開き直っていた」そうだ。
寒さ対策も実を結んで全てを覆した1大会5勝
4番打者でもあった比嘉氏は「その分、打って返そうと思っていました」と言う。水戸商との決勝戦は2回に2点を先行されたが、きっかけは無死からショートゴロをお手玉した比嘉氏のエラー。しかし、先頭打者だったその裏、すぐさま左中間を真っ二つの二塁打で出塁し、沖縄尚学はこれを足掛かりに2-2の同点に追いついた。そこから流れをつかみ、5回に2点を勝ち越し、6回、7回にも加点しての優勝だった。
「後になって気付かされたこともありました。それまで沖縄県勢は選抜で5勝(1971年普天間1勝、1975年豊見城2勝、1977年豊見城1勝、1996年沖縄水産1勝)だった。僕らはその5勝を1大会でやっちゃったんで、これはちょっと春の革命を起こしたんじゃないかってね。それまで沖縄は、『寒いところに行って試合すると勝てない』みたいなレッテルをたぶん貼られていたんですけど、そういったものも全部覆しましたし……」
春の甲子園はまだまだ寒いということで、沖縄尚学ナインはポケットにカイロを入れたり、いろんな対策を練っていた。そんなすべてが実を結んだ。比嘉氏はしみじみとこう話した。「大会が終わって沖縄に帰った時、那覇空港は人でいっぱいでした。すごく驚きましたね。空港から学校までバスで移動したんですけど、その道中もそう。ちょっとしたパレードみたいになって、あれは忘れられないですね」。
人生が変わった。「甲子園は僕の中でもターニングポイントというか、間違いなくすごい転機だったなっていうのは今でもやっぱり思いますね」。高校3年春につかんだ全国の頂点。比嘉氏にとって、それは最高の思い出であり、その後にもつながる大きな出来事だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)