寮追い出される危機、同期とケンカも…早大黄金期を牽引、不仲4人衆が高めた“和”

早大時代の比嘉寿光氏(中央)【写真:本人提供】
早大時代の比嘉寿光氏(中央)【写真:本人提供】

比嘉寿光氏は高校選抜の4番を務め、クーパーズタウンの球場で本塁打

 常に危機感を持っていた。沖縄尚学で1999年の選抜高校野球を制した比嘉寿光氏(現広島編成部編成課長)は2000年4月、早稲田大学に進学した。1年から4年まで一度もベンチ入り可能な30人のメンバーから外れることはなかったそうだが、実はこれ、激しい生き残りバトルをクリアしてのことだった。「もしメンバーに残れなかったら、寮から出て一人暮らしをしなければいけなかったのでね」。生活費がかなり違ってくるので寮生活をキープすることに必死だったのだ。

 1999年夏の甲子園2回戦で都城(宮崎)に敗退。しかし、沖縄尚学の主将で4番打者だった比嘉氏の夏は、まだ終わらなかった。大会後、米国に遠征する日本高校選抜チームのメンバーに選ばれたからだ。米国の高校選抜チームとの親善試合は米国ニューヨーク州クーパーズタウンの歴史ある野球場「ダブルデイ・フィールド」で行われた。そこで日本のチームが試合をするのは初めてのことでもあったという。

 比嘉氏は日本チームの4番打者として出場した試合でホームランを放った。「その球場での日本人1号と言われたのを覚えています」。沖縄尚学からただ1人選出され「最初はちょっと、心細いのもあったんですけど、なじむのはすぐでしたね」というが、その時から進路は大学1本で、プロは考えていなかったそうだ。「自分はそんなレベルではないと思っていましたから。日本代表に入って、なおさらそう思いましたよ」。

 プロレベルの選手との差を目の当たりにしたという。「(東邦の)朝倉健太君(元中日)とか、桐生第一の正田(樹)君(元日本ハム、阪神、ヤクルト)とかを見て、こういうピッチャーがプロに行くんだなと思った。投げているボールが全然違いましたからね」。そんな経験を経て、自身の能力をさらに高めることを考えて、決めたのが早稲田大への進学だった。

「沖縄から離れるとお金もかかるし、ウチの家の経済状況から私学は無理だろうと思っていたので、当初は全額免除の大学に行くつもりだったんですが、親が早稲田(の金額)なら『頑張れば何とかなる、行かせられます』と言ってくれたんです」。親に感謝しての東京行きだったが、最初から“際どい闘い”が始まった。それが、寮生活をかけてのメンバー入り争いだった。

現在は球団の編成部編成課長を務める元広島・比嘉寿光氏【写真:山口真司】
現在は球団の編成部編成課長を務める元広島・比嘉寿光氏【写真:山口真司】

沖縄尚学から早大に進学…鳥谷敬、青木宣親らと同期だった

「お金がある人たちはいいんでしょうけど、僕なんかは寮か一人暮らしではだいぶ違ってきますからね。実際、入れ替わりも多く、寮から出される人もいたんで、もし、自分がそうなったら大変だという危機感はありましたよ」。そんな中、比嘉氏は最初から寮生活を送った。「ホント、良かったですよ。同級生では僕と鳥谷(敬内野手=元阪神、ロッテ)と由田(慎太郎外野手=元オリックス)と清水(大輔投手)の4人は1年の時からずっと寮でした」。

 それだけ実力もあった証拠だろう。この4人の絆もだんだん深いものになっていった。「最初は違いましたけどね。1年の時、雑用を誰がするかでもめたこともありましたし、2年くらいまでは全然仲が良くなくて、メンバーによっては寮の中でケンカしたりとか、口も利かない時期もあった。3年くらいからですよ、チームも強くなって『和』というか、なんとなくみんなの雰囲気が良くなっていったのは……」。

 大学3年時には1学年上に和田毅投手(現ソフトバンク)、1学年下に田中浩康内野手(元ヤクルト、DeNA)、2学年下には武内晋一内野手(元ヤクルト)がいた。同級生でも鳥谷内野手らの他に青木宣親外野手(現ヤクルト)が台頭しており、戦力が揃い、その年の東京六大学春、秋のリーグ戦を制覇した。早大野球部黄金期の到来だ。

 ただし、比嘉氏はこう付け加えた。「1つ上、2つ上の先輩たちが、犠牲になってくれて、僕らを伸ばしてくれたんです。特に1学年先輩でキャプテンをやられた越智良平さんは同じポジションの僕をすごくかばってくれて、育ててくれた。練習中もそうですけど、なんか愛があったなぁってすごく思いますよ。結果を出したのは僕らですが、強くなったのはそんな先輩たちのおかげなんです」。ここでも人に恵まれた。進路に早稲田大を選んだことは大正解だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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