“あだ名”で終わったHR王 「私はいつも3位」元ハム助っ人に立ちはだかった最強軍団

日本ハムの駐米スカウトを務めるマット・ウインタース氏【写真:川村虎大】
日本ハムの駐米スカウトを務めるマット・ウインタース氏【写真:川村虎大】

日本ハム時代に“踊る本塁打王”と呼ばれたマット・ウインタース氏

 グラウンドでマジックを披露したり、チアガールと一緒にダンスをしたり――。元日本ハムのマット・ウインタース氏は明るいキャラクターでファンから愛された。4年連続30本塁打を放ち、ついたあだ名は“踊る本塁打王”。ただ、「私はいつも3位だった」。当時は西武が黄金期。他球団の助っ人にも阻まれ、実際に本塁打王のタイトルを獲得することはなかった。

 1978年のMLBドラフト1巡目(全体24位)で名門ヤンキース入りしたウインタース氏だが、心身の不調もあり長いマイナー生活が続いた。ロイヤルズ時代の1989年にメジャーデビューするも、43試合で打率.234、2本塁打。翌1990年に日本ハムに入団した。

 同年はオープン戦の不調を乗り越え、シーズンでは35本塁打。1993年まで4年連続で30本塁打以上を記録し、4番としての地位を確固たるものにした。しかし、1度もタイトルを獲得することはできなかった。上にはいつも西武のオレステス・デストラーデ内野手と近鉄のラルフ・ブライアント外野手の2人がいた。ウインタース氏は懐かしそうに振り返る。

「毎年のようにホームラン争いをしたね。デストラーデとラルフ・ブライアントと。ブライアントは“スゴイパワー”。だから2人がいて、私はいつも3位だったかな。デストラーデはいい奴だったね」

優勝を阻んだ黄金期の西武…秋山幸二は「米国でもオールスター」

 本塁打王だけでなく、優勝もデストラーデが所属していた西武に阻まれた。“親分”こと大沢啓二氏が2度目の監督に就任した1993年。8月には一時首位に立つなど奮闘したが、結果的に1ゲーム差でスター揃いの西武に屈した。「とても強いチームだった。若い頃のキヨハラ(清原和博)、投手のワタナべ(渡辺久信・現西武GM)。そしてクドウ(工藤公康・元ソフトバンク監督)、カク(郭泰源)……。セイブは毎年勝っていた」。

 中でも衝撃を受けたのは、後にソフトバンクの監督を務めた秋山幸二外野手だった。NPBで通算2157安打、437本塁打、303盗塁を誇った3拍子揃った大砲に「アキヤマなら米国でプレーしてもオールスターになれたと思う」と確信。日本語で「スゴイね」と振り返った。

 ウインタース氏は1994年に現役を引退。その後、マイナーリーグのコーチを務めたのち、再び古巣・日本ハムで駐米スカウトを務めている。担当したブランドン・レアード内野手は2015年から4年間日本ハムでプレー。2016年には39本を放ち、自らが獲得できなかった本塁打王に輝いた。63歳になっても、日本時代の思い出は鮮明に残っているようだった。

(川村虎大 / Kodai Kawamura)

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