6年目で光明も「遅かった」戦力外通告 初打席アーチも…取り戻せなかった狂った歯車
2005年9月にプロ初打席初本塁打を記録した比嘉寿光氏
デビュー戦では最高の結果を出した。早大からドラフト3位で広島入りした比嘉寿光氏(現広島編成部編成課長)は、プロ2年目の2005年シーズン終盤に1軍昇格を果たした。初出場は9月19日の横浜戦(横浜)。8回に代打で起用され、プロ初打席で初本塁打をぶちかました。その後への期待も高まる一発だったが……。「初打席で全部の運を使ったって、今でも言っているんですけどね」。まさかの結果が待っていた。
比嘉氏はプロ1年目の2004年、怪我に泣き、1軍出場なしに終わった。早大の同級生の阪神・鳥谷敬内野手は1年目から1軍でプレーし、ヤクルト・青木宣親外野手もフレッシュ・オールスターゲームでMVPを獲得した。「取り残された感がすごいあったんで、2年目はやらないといけない、やってやろうという気持ちでした」。キャンプから付いていくのが精一杯だった1年目を反省し、オフからきっちり調整して2年目に臨んだ。
その年、2軍では81試合に出場し、打率.282、4本塁打、42打点、8盗塁もマークした。なかなか1軍からお呼びはかからなかったが、必死に練習に取り組み、特に打撃力を磨いた。そして9月になって、ついに巡ってきた1軍の舞台。横浜の中継ぎ左腕マイク・ホルツ投手からプロ初打席初本塁打を放った。「バックスクリーンのちょっと左くらいへ。たぶんチェンジアップじゃないですかね。真ん中低めくらいの遅いボールでした」。
うれしかったし、興奮した。「大差で負けていた試合での2ランだったんですけど、僕、ベースを回ったところでガッツポーズをしちゃいました。そんな展開でね。普通はやっても小さくだろっていうのを、思いっ切り。若かったなぁって思います。今、2軍の選手に『俺、やっちゃったんだよね』って、その時のことを笑い話でするんですけどね」。とはいえ、自信になった。その後、スタメン出場も経験。「2年目は充実していましたね」と振り返った。
怪我がついて回ったプロ人生、若手に伝える自らの経験
だが、流れは好転しなかった。「ああいうホームランも打って、2年目は、よし! って思えるような締めくくりができたんで、3年目(2006年)は絶対やってやるってくらい、明るい感じで入ったんですけどね……」。邪魔をしたのは、またもや怪我だった。「監督がマーティ(・ブラウン)になって、外野も練習し始めて、オープン戦も1軍に帯同し、いい感じで見てもらっていたんですけどね。外野の守備でボールを追っかけている時に右足を捻挫してしまって……」。
結局、比嘉氏は3年目以降、1軍に出場することができなかった。「怪我をするとチャンスは少なくなりますよね。どうしても印象も悪くなりますし。それに、だんだん後から入ってくる若い選手にチャンスが回ってくるんで、限られた中で結果を出さなきゃっていうのが焦りにつながって、空回りもしていたと思います」。5年目(2008年)のオフには右肘も手術した。
「もともとネズミ(関節の中の遊離軟骨)があって簡単なクリーニング手術だったんですけど、もうネクタイも自分で結べないくらいの状態で、野球をやる以前の問題だったので球団にお願いしました」。背番号が「10」から「52」に変わった手術明けの6年目シーズンは、2軍で規定打席に到達できなかったものの打率.313をマーク。打撃の状態は上がったが「もう遅かったですね」。2009年10月に戦力外通告を受け、現役引退を決断した。
「初打席でホームランが出た時、周りのコーチに言われたんですよね。『お前、これで終わるなよ、たまにいるからな、この1発で終わるヤツが』って。案の定、僕がそれでした。やっぱり大事なところで怪我がついて回ったのが僕のプロ野球人生だったなと思います」と比嘉氏はつとめて笑顔で話したが、思ってもいない結果であったろうし、悔しかったことだろう。
しかし、こうも言い切った。「じゃあ、これを次に生かすには、どうすべきかと考えた時に、僕はこの経験を伝えていった方がいいんだろうなって思ったんです。今、2軍にいる後輩たちにもそうだし、子どもたちにもね」。プロでの現役生活は短く、通算成績も2年目の8試合、16打数3安打1本塁打2打点がすべてとなってしまったが、さまざまな意味で濃密な時間であったのも事実。未来につなげる比嘉氏のアクションは現在進行形だ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)