持ち球が増えれば「1つで5勝、2つで10勝」 “平凡”投手を覚醒させた「ノムラの教え」
「指名してくれなかった中日と星野監督を見返したい!」
1990年、1991年に2年連続開幕投手を務めるなど活躍した、元ヤクルト投手で現・野球評論家の“ギャオス”こと内藤尚行氏。「プロで目立ちたい」という野望を抱いてヤクルト入りし、米ユマキャンプで狙い通り首脳陣にアピールすると、高卒1年目の1987年に1軍デビュー(3試合登板未勝利)。2年目2勝、3年目は先発・抑えにフル回転し、41試合163イニングを投げ12勝8セーブ。順風満帆な成長を遂げる。
主力の高野光(1989年~1991年)、伊東昭光(1990年~1991年)、荒木大輔(1988年~1991年)が肩肘を故障してほとんど投げていなかった(カッコ内はシーズン)ことが、内藤の登板数を増やした。12勝を挙げた1989年、勝ち星を重ねるたびにコメントがエスカレートする内藤。マスコミ露出度は激増する。
「背番号がゴミ(53)とおちょくられたけど、今年から24で~す!」「僕を指名してくれなかった中日と星野監督を見返したい!」
当時、横浜スタジアムの通路は、内藤の長身(187センチ)なら空中で「突っ張り棒」的なことができた。そんな写真を掲載して記事を書いた野球雑誌の記者は、球団広報から呼び出され、こっぴどく説教されたそうだ。
「球団広報は立場上、そう言わざるをえないでしょう。でも、新庄君(剛志=現・日本ハム監督)はお金をかけてパフォーマンスをするけど、当時お金をかけないでいかにパフォーマンスをするかがポリシーだった僕からすれば、(アピール記事ストップは)ものすごい営業妨害だったですね」
プロ野球界においてのパフォーマンスを念頭においた内藤にとって、いかなる形であれ注目を浴びることは本望だったのである。
1着20万円のピンクのスーツを3着保有
内藤の入団時の監督は、好々爺然としていた関根潤三。すでに「還暦監督」であった。「見た目と裏腹に厳しい一面もありました。テレビ中継のアップでは下半身が映らないですが、『しっかり投げろ!』とスパイクで足を踏んづけられていました」。
当時の首脳陣は、阪神監督も務めた安藤統男作戦コーチ、小谷正勝投手コーチ。「いつも3人で何か相談していました。関根さんの近くを通るたびに、野球以外での小言が多かったですね。『何だ、あの私服は?』とか」。関根監督からすれば、ジェネレーションギャップを埋める方策であり、1つのコミュニケーションだった。
「僕は1着20万円もするコシノジュンコさんの服を3着衝動買いしたりしていました。服のバリエーションとして、ピンクや黄色のスーツを入れたい年頃だったんでしょうね」
当時オフは「プロ野球12球団対抗歌合戦」「大相撲VSプロ野球対抗歌合戦」などのテレビ番組の花盛りであり、派手な衣装は着慣れていた。「歌って踊れる」二刀流投手・ギャオス内藤の面目躍如とも言える。
「2種類の変化球」と絶妙制球…「ノムラの教え」で10勝ゲット
内藤は翌1990年も10勝6セーブ。1991年に入団した、内藤と同い年の高津臣吾(現・ヤクルト監督)が「プロに入って驚いたのは、内藤の絶妙なコントロール。大変なところ(プロ)に来てしまった」と舌をまいた。
しかし、内藤のストレートの平均スピードは140キロに届かない。プロ11年間の通算成績の内訳は、「9イニング平均与四球率3.47個」「同奪三振率6.76個」と平凡なものだ。当時のプロ野球記者は、内藤がなぜ勝てるのか不思議でならなかったらしい。
「プロ入り後、フォークボールをウイニングショットとして覚えました。要所ではストライクゾーン4分割でもいいから、腕を振って外角低めにきっちりと投げ切る自信がありました」。187センチの長身から投げ下ろす角度あるストレートとフォークは、威力抜群だった。
1990年からは新たに野村克也監督が就任。「プロではストライクが取れる変化球が1つで5勝、2つで10勝」の教えを学んだ。「こんなにデッカイ図体をして、僕のスライダーは遅かった。言わば『ズライダー』ですね(笑)。だからストレートが140キロでも、タイミングを外すチェンジアップの役割を果たしたんです」。
投球はやはり「スピード」よりも、「コントロール」と「緩急」が大事なことを、内藤の投球は再認識させた。(文中敬称略)
(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)