絶体絶命の無死満塁で“神ピッチ” 落合博満が唖然…連覇呼んだ「ギャオスの16球」
移籍した中日で“非難”された「ギャオスの16球」
「おいギャオス、あの時はとんでもないことをしてくれたな」。1990年、1991年に2年連続開幕投手を務めるなど活躍した、元ヤクルト投手で現・野球評論家の“ギャオス”こと内藤尚行氏。1996年シーズン途中にロッテから中日に移籍した時、中日ナインはそう非難しながら、「歓迎」してくれたという。「あの時」とは、1993年、ヤクルトと中日とのマッチレースでの出来事だ。
この年、5月から首位を独走したヤクルトだが、8月に中日に逆転を許す。31日からの天王山3連戦(ナゴヤ球場)は、2連敗して首位・中日に1.5ゲームを離された。3戦目は延長にもつれこむ死闘。野村克也監督の言う「連覇10か条」には「同一カード3連敗を防ぐ」があった。
1993年の内藤は右肘痛の影響もあって、結果的に17試合で1勝1セーブ。しかし、この重要な局面で快刀乱麻の投球をやってのけた。
シーズンオフ、ヤクルト本社の関係者来賓500人を前にした祝勝会で、あの辛口の野村が内藤を絶賛した。「終わってみれば7ゲーム差ですが、絶体絶命のピンチで、まさかあの内藤が一世一代の投球をしてくれたのです」。(おいおいノムさん、その言い方はないだろう。でもホント、俺のおかげだよな)。内藤は苦笑しながら30年前を振り返った。
中日先発はエース・今中慎二。9回表2死から2-2の同点に追いつく。延長10回、この年からストッパーになった高津臣吾が5イニングを無失点に抑えた。
延長15回裏。代わった金沢次男と山本樹が無死満塁のピンチを作って降板。ここで内藤に登板指令が下った。18時プレーボールで、時計の針は23時を回っていた。「最悪の場面。そんな殺生な」。内藤は3回からリリーフの準備を続け、投球練習は優に100球を超えていた。
「人間、逃げ道を作るのも大事だ」
迎えるクリーンアップはアロンゾ・パウエル(のちに3年連続首位打者)、落合博満、彦野利勝。内藤は開き直った。「満塁本塁打と押し出し四球だけは避けると心に決めた。それ以外は仕方ないと割り切ろう。人間、逃げ道を作るのも大事だ。これは今の僕の講演のネタでもあります」。
当時はタイムが何回までという制限もなかった。打者1人ずつ、マウンドで細かく打ち合わせできる。捕手・古田敦也がマウンドに近寄ってきた。「ギャオス、絶対逃げるなよ!」(と言われても、俺が出した走者じゃないからなあ……)。しかし、内藤は腹をくくった。
3番・パウエルは6球すべて内角。カウント2-2から138キロのストレートで空振り三振。「ネクストサークルで見ていた落合さんは『1球くらい内角があるだろう』と思ったんでしょうね」。4番・落合には全球「勝負球」フォークを投じた。1球目はド真ん中見逃し。2球目は低めベース手前のワンバウンドで空振り。
「追い込むと、僕には投手板を外して間を取るぐらい余裕がありました」。落合は狙い球を絞れなかったようだ。「ようし、決めるぜー!」。3球目、またド真ん中フォーク127キロを見逃し三振。あの大打者・落合が唖然としていた。捕手・古田は思わず小さくガッツポーズ。
5番・彦野に対してはカウント2ボール2ストライク。「7球目、ここで決めないと苦しい」。最後は「投手の原点」外角低め138キロストレート。投げた瞬間低めギリギリ。「人生をかけた1球、ボールだったら俺も終わりか」。判定はストライク。見逃し三振。低めが好きな福井宏球審だったことも味方した。
前に飛ばさせなかった内藤に軍配が上がった。踏みとどまったヤクルトは中日を再逆転して、連覇への道をひた走った。「おい、江夏の21球ならぬ、ギャオスの16球やったな。本を書けるぞ(笑)」。江夏が伝説を作った1979年日本シリーズ、広島-近鉄第7戦を解説していた野村克也からの最大の誉め言葉だった。(文中敬称略)
(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)