「津田を優勝旅行へ」選手会長のゲキ ナインを奮い立たせた涙のミーティング
1991年に6年ぶりの打率3割をマークしVに貢献した山崎隆造氏
涙のミーティングを経ての逆転Vだった。野球評論家の山崎隆造氏は広島での現役時代、プロ14年目の1990年から2シーズン、選手会長も務めた。優勝した1991年は、病に倒れた炎のストッパー・津田恒実投手のことを思って赤ヘルナインが一丸になった。「投手も野手もみんなが好きなヤツだったからね」。ナインに本当に病状を伝え、「津田のために頑張ろう!」と声を上げたのが山崎氏だった。
1988年オフに広島は山本浩二監督、大下剛史ヘッドコーチ体制になった。いきなり日南秋季キャンプから厳しさ全開だった。「それはもう地獄の秋のキャンプでした。メニューがアップ、トレーニング、で、ランチ。走れ、走れ、走れでしたよ」。ベテランだろうと容赦はない。翌年がプロ13年目だった山崎氏も、若手同様に鍛え直された。「みんな“ミイラ状態”でした。テーピングぐるぐる巻きでね」。
山崎氏は、そのハードワークも乗り越えた。「この頃から体の衰えが始まったんですけどね」と言いながら、1989年は130試合に出場し、打率.266、8本塁打、34打点、12盗塁。三塁での出場も増えてきた1990年は127試合、打率.294、7本塁打、50打点、8盗塁。打率と打点は前年を上回った。15年目の1991年は122試合、打率.301、8本塁打、50打点、9盗塁。打率は再び3割を超え、チームの優勝に貢献した。
1991年は前田智徳外野手、江藤智内野手ら若手が活躍しだした頃。「あの年はキャンプインの日に浩二さんから監督室に呼ばれて、『お前、江藤をどう思う』って話になった。『今年は(三塁で)江藤を中心に使いたいと思っているんや』って言われたので、『江藤が将来の主軸を打てる選手であるのは認めます。でも僕も生活がかかっているんで勝負します』と言った。後々、浩二さんに話したら、全然覚えておられなかったですけどね」。
それで気合が入った。「久々に3割、打てましたからね。この年は江藤に勝ったんです」。三塁手でベストナインにも選出された。「晩年にまた内野を守らされるとは思っていなかった。けっこうエラーもしたと思いますよ。肩がもう駄目で、スローイングにまったく自信がなくて、ものすごく不安を抱きながら守っていたんですけどね」。チームも優勝した。首位を快走していた星野仙一監督率いる中日を、終盤に逆転した。
「風邪が治らん」津田投手が4月に離脱…脳腫瘍が判明
そして山崎氏は、「あの時は津田のこともありましたからね」とつぶやいた。津田投手は1991年4月14日の巨人戦(広島)、1点リードの8回表に登板したが、打ち込まれて降板。体調が思わしくなかったためで、翌日から離脱し、検査の結果、脳腫瘍が判明して闘病生活に入った。「よく覚えている。あの日、打たれた後、泣きそうな顔をして(投手コーチの)池谷(公二郎)さんと監督室に入っていったのを……」。思うようなボールが投げられなかった悔しさが伝わった。
「実は僕も仲がよかったんで、オープン戦の時から『頭が痛い、痛い。風邪が治らん』と言うから『しっかり診てもらわないけんぞ』って話していたんです」。津田氏が当初、入院していた広島大学病院には「こっそりお見舞いに行ったりもしていた」という。それだけに病名を知った時はショックだった。シーズン終盤の敵地・甲子園での阪神戦前。兵庫・宝塚市の選手宿舎でのミーティングで、選手会長の山崎氏は津田氏の病状をナインに説明した。会場に涙があふれた。
「津田のために頑張ろう。優勝旅行に連れていってやろう」と山崎氏はナインに訴えた。そこから赤ヘルナインはさらに奮い立った。チームがひとつになった。9月10日からの中日との直接対決3連戦(ナゴヤ球場)に3連勝して波に乗った。山崎氏はその3試合とも「5番・三塁」でスタメン出場。3戦目(9月12日)は1本塁打を含む3安打7打点と大活躍だった。
残念ながら津田氏は1993年7月20日に32歳の若さでこの世を去ったが、山崎氏は炎のストッパーの勇姿を決して忘れない。「津田が手術せないけんって日に、みんながお守りを持って、試合に臨んだこともありました。本当に人気者だったんで……」。1991年の広島逆転Vは、まさに津田氏とともに成し遂げたものだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)