身売り、愛称変更、監督交代…助っ人初の3冠王がオリを去った理由「ゲームが仕事に」

インタビューに応じた元阪急のブーマー・ウェルズ氏【写真:舛元清香】
インタビューに応じた元阪急のブーマー・ウェルズ氏【写真:舛元清香】

元阪急のブーマー氏が助けられた「完璧な監督」の存在

 1984年にNPBの外国人選手として初の3冠王に輝いたブーマー・ウェルズ氏は、来日1年目の1983年から打率.307という好成績を残し、伝説の助っ人への第一歩を踏み出した。その際に支えとなったのが、当時阪急を率いた上田利治監督だったという。8月の来日時に「Full-Count」の取材に応じ、パワーと確実性を兼ね備えた打者へ進化できた理由を語った。【取材協力・一般社団法人日本プロ野球外国人OB選手会】

「“ガイジン”にとっては完璧な監督と言っていいでしょうね」。ブーマー氏は上田監督のことをこう表現する。通算277本塁打、1413安打の大半は、上田監督のもとで記録した。

「一生懸命練習していれば、本当に自由にプレーさせてくれた。選手のことをリスペクトして、楽しませてくれた。日本には、野球を仕事だと考えている選手も多かったけど、上田さんは『ゲームだよ。楽しまなきゃ』と常に言っていた。それが上田イズムだったんじゃないかな」

 身長2メートルの巨体で“怪人”と呼ばれたブーマー氏は1983年、まずは合格点の成績を残したが「1年目は勉強の年だった」という。シーズンを終えてからが本番だった。「シーズン中はインプット。オフはそれを復習して、アジャストしようとした。私が三振して、喜んでいた投手のことを思い返してね」。

 シーズン中から対戦ビデオを見たり、研究を進めていた。さらに「心のノートに全部書いていたよ。いつも試合後、ロッカーの前に座って対戦を振り返っていた。野球において、考えることは本当に大切なんだ」。抜群の記憶力も助けとなった。翌年、ブーマー氏のバットは爆発する。

インタビューに応じた元阪急のブーマー・ウェルズ氏【写真:舛元清香】
インタビューに応じた元阪急のブーマー・ウェルズ氏【写真:舛元清香】

メジャーから復帰の誘いもあったが「日本が大好きになっていた」

 1984年は打率.355、37本塁打、130打点という圧倒的な成績で3冠王に輝いた。「メンタル、プレッシャー、重圧。全てがのしかかってきて苦しかった。2年目は本当にいろんなことを考えて、疲れてしまったよ」という中で、阪急はリーグ優勝を果たす。喜びが全ての苦労を消し去ってくれた。「あんな経験は初めてだったね。チームはみんな家族みたいだったし、本当に喜べた」。

 ただ、日本一には届かなかった。日本シリーズでブーマー氏は広島投手陣の徹底マークにあい、不振のまま終えた。打率.214で本塁打はなし。当時を振り返ると「阪急は優勝を決めたのが広島よりだいぶ早くて、タイミングも悪かったかもしれないね」と悔しそうだ。広島は最後まで中日とのデッドヒートを演じての日本シリーズで、パ・リーグで独走した阪急より、優勝決定が10日ほど遅かった。そして“逆・シリーズ男”になってしまったブーマー氏を救ったのは、ここでも上田監督だった。

「お前はここまで本当にチームをよく引っ張ってくれた、と言われてね。『他の選手が立ち上がらないといけない』とも言ってくれて、本当にありがたかった」。

 翌年に阪神のランディ・バース氏が3冠王となり、王貞治氏が持つ当時のシーズン本塁打記録の55本に迫った。さらに阪神は日本一となり社会現象にまでなった。当時、パ・リーグの各球団は観客動員に苦しんでおり、球場はガラガラなことも多かった。阪急の本拠地だった西宮球場と、甲子園は至近距離。ブーマー氏も「もしセントラルで3冠王になっていたら、雲の上の大スターみたいな扱いだったでしょうね」とあまりの格差に驚いた。

 この頃、ブーマー氏の元にはメジャーリーグに復帰しないかという誘いがあった。ブルワーズからは具体的なオファーがあったが断った。「お金という理由もあったけど、もう日本が大好きになっていたからね。ブレーブスも仲間も本当に愛していた。日本で最後までやろうと思うようになっていた」。決して望んでの来日ではなかった。心境の変化はなぜ起きたのだろうか。

身売り、ニックネーム変更、監督交代…「ゲームが仕事になってしまった」

「満員のスタジアムでプレーしたいのはもちろんです。3万、4万の観衆が、自分のファンじゃなくても見てくれるのはモチベーションになります。だからお客さんの多かった西武戦ではいつも張り切っていたし、雰囲気が好きでしたね」。一方で、別の思いもあった。「どんなに少なくても、ファンに認められたいと思ってプレーしていました」。

 1988年、阪急はオリックスに身売りし、1990年オフにはブレーブスという愛称も変わった。「身売りは本当に不思議な出来事だった。急だったし、まさかと思った」。ニックネームが変わるのも「理解できなかったね。ブレーブスというすばらしい名前があるのに、ブルーウェーブってなんだろう? とね」。良き理解者だった上田監督も、1990年限りでチームを去った。

「ゲームだった野球が、私の中でも仕事になってしまったんだ」。ブーマー氏は神戸に移転したブルーウェーブで1年だけプレーしたのち、自由契約となってダイエーに移籍。打点王を獲得したが引退という道を選んだ。

 2023年になって、バース氏が日本の野球殿堂入りを果たした。活躍したのは同時代。バースが日本では6年プレーし通算202本塁打、743安打なのに対し、ブーマー氏は10年間で1413安打、277本塁打。首位打者2回、本塁打王1回、打点王3回と、決して劣らない実績を残している。

 自身の殿堂入りについて「助っ人で最初の3冠王は私です。殿堂に入る資格はあると思うけど、こればかりは自分の順番を待つしかないからね」。穏やかな表情でそう語るブーマー氏。朗報が届くのを願ってやまない。

(羽鳥慶太 / Keita Hatori)

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