「命をかけて投げていた」赤ヘルのエース また一緒に…果たせなかった後輩との“約束”
ユニホームを脱ぎ2012年から野球評論家になった山崎隆造氏
野球評論家の山崎隆造氏は現役17年、指導者18年の計35年間、広島東洋カープのユニホームを着続けた。1976年にドラフト1位で崇徳高校から入団、1993年限りで現役を退き、1994年からはコーチ、2軍監督としてチームを支えた。カープ退団後の2012年からはテレビ解説など現在の仕事に就いたが「最初は口下手な僕ができるだろうかってものすごく不安だった」。そんな時に相談し、アドバイスをもらった人がいた。元広島エースの北別府学氏だ。
山崎氏は、2011年限りで広島2軍監督を辞任。プロ入り以来、初めてユニホームを脱いだ生活に入った。「何をしようかとなった時、(松田元)オーナーに言ってもらって、解説の仕事をすることになったんです。あれから10何年、いまだに下手なしゃべりだけど、やらせてもらっている。僕はいろんな人にお世話になって、ラッキーの連続ですよ。ありがたいと思っています」。なかでも北別府氏には「ちょっと、僕が甘えたんです」という。
山崎氏より1学年上の北別府氏は2005年から野球評論家として活動しており、その世界でも先輩だった。「しゃべりについて相談して2つ、3つアドバイスをもらったことから始まって、キャンプの視察もお供させてもらった。ペイさん(北別府氏)に『一緒に行っていいですか』って聞いたら、『おお、いいよ』って。ホテルとかもとってくれて、食事に行くのも一緒でした」。初の解説業に不安を抱えていただけに、とても心強い存在だった。
「現役時代のペイさんといえば、まず先発する時のオーラがすごい人だった。その日の試合前は『俺に話かけるな!』というオーラもね。1度、普通にロッカーで他の野手と話していたら、『今日、誰が先発すると思っているんや』って怒られたこともあった。それだけの集中力があった。あの『針の穴を通す』ように、1球ずつの集中力がすごかった。ホントにプロ中のプロ。それこそ命をかけて投げていたと言っても大げさではなく、そう感じる人でしたね」。
北別府氏は今年6月16日に、65歳で亡くなった。2020年1月に成人T細胞白血病を患っていることを公表、闘病生活を続けていたが、帰らぬ人になった。「急にああいう病気になられて……。申し訳なかったけど、コロナもあってメールしかしていなかったんですよ。復帰したら、また行きましょうねって……」。お世話になった日々を思い出しながら、山崎氏は声のトーンを落とした。また一緒にキャンプ地巡りをしたかった……。
1993年の引退後…しばらく空き番の予定だった「1」
現在、山崎氏は社会人野球JR西日本の臨時コーチも務めている。「若い選手にパワーをいただきながら、指導面でまた違う自分を出せるのかなと、勉強させてもらっている感じです」。母校・崇徳高の硬式野球部OB会副会長でもある。2023年夏の広島大会で崇徳は準々決勝で広島商に4-20の5回コールド負けに終わったが、ここから巻き返すためにも「ちょっとでも力になれればいいなと思っている」。やはり野球とは切っても切れない関係だ。
広島東洋カープの背番号「1」は山崎氏の後、前田智徳氏(現野球評論家)、鈴木誠也外野手(現カブス)が受け継いだが、今は空き番となっている。「僕が(1993年に)現役をやめる時、(球団本部長の)上土井(勝利)さんに『1番はしばらく誰にもつけさせんから』って言われたんですけど、1週間も経たないうちに電話がかかってきて『前田に1番をやろうと思うけど、どう思う』って。僕からしたらかわいいヤツだったし『前田だったらいいですよ』とは言ったんですけどね」。そう答えながらも、複雑な思いではあったのだろう。
「あの時、前田にね『俺の最後の1番のサインをやるから、お前の最初の1番のサインを俺にくれ』って言って、もらったんですよ。色紙に“山崎さんへ”と書いてもらってね。今もちゃんと保存していますよ。その後、1番つながりで、誠也にも同じようにもらいました」。それくらい愛着ある背番号1。「僕より優れた選手が後を継いでくれたんで、ありがたいなと思うし、やはり2人のことは気になりますね。そうそう、次の1番は誰がつけるかっていうのもね」。
プロ入り後にスイッチヒッターに挑戦し、カープに欠かせない主力選手になった。指導者としても多くのカープ戦士を育てた。「この世界に入ってレギュラーになるのも一部、長年やるのも一部、そこからコーチになれるのも一部。コーチから解説者になれるのも一部。ここまでの野球人生をたどったら、ホントいい人生ですよね、僕は」。そしてまだまだ続く。「またスイッチヒッターをつくってみたいっていうのは、夢としてありますけどね」。野球人・山崎氏はそう言って軽く微笑んだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)