憧れの巨人に「しぶしぶ行くことに」 まさかのドラ6指名…丸め込まれた“大人の口”
盗塁王2度の緒方耕一氏の夢は「社会人で都市対抗」だったが…
現役時代にスピードを武器にし、巨人で2度の盗塁王を獲得した評論家の緒方耕一氏は、端正なマスクも相まって人気を集めた。引退後も巨人、日本ハム、ヤクルトで指導者を務め、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でもコーチとして日本の大会連覇に貢献した。巨人入団から1軍デビューイヤーまでの思い出を振り返ってもらった。
緒方氏は「ドラフトにかかってしまって」と自身のプロ入りを表現する。「プロを全く考えてないわけじゃなかったですけど、僕は上背(身長175センチ)もないし、厳しいかなと思ってましたので。社会人野球で都市対抗に何年か出て、そのまま会社で仕事をするのが夢でしたね」。運命を変えた1986年秋のドラフト前の心境を明かす。
名門・熊本工の「1番・遊撃」として、春夏連続で甲子園の土を踏んだ。計3戦、全ての試合でヒット、盗塁を記録した。横浜商との夏の初戦ではセンターの頭を越すサヨナラ三塁打を放った。エースで主将の永野吉成氏はロッテに5位で入団。サイドスローの木村重太郎氏は社会人の東芝に進み、後にアトランタ五輪で日本代表入り。主砲の杉本拓也氏も近鉄から5位指名を受けた(入団は拒否)。そうそうたるメンバーに伍して、存在感を発揮した。
緒方氏は、杉本氏と共にアマ球界の強豪・新日鉄広畑(現・日本製鉄広畑)への入社が内定していた。「僕にはプロのどこどこから挨拶が来たとか、そういう話はなかったです。おかげさまで社会人からはたくさん誘って頂き、見学に行きました。最後に『もしプロから指名がかかったら行ってもいいですよ』とのことで、決めました」。
迎えたドラフト会議で“もし”が現実になった。巨人の6位指名。巨人ファンではあったという。「今みたいにBS、CS放送はないですからね。九州では当時、テレビの地上波のプロ野球は巨人戦。まだ九州にソフトバンクもなかった。他の球団のイメージはわかなくとも、巨人はわきました」。
ファンとしての心情と進路は別物と捉え、揺るがないつもりでいた。「家が裕福じゃなかったので、イチかバチかの世界より安定した職業に就きたいと。『絶対に無理。本当にありがたい話ですけど、プロは行きません』。両親と部長と監督に言ったんですけど……」。きっぱり断った。「でも18歳ですから」と緒方氏。周囲のすすめの前に「大人に口で勝てるわけがない。最終的には2、3日後に降参。しぶしぶプロに行くことにしました」。
王監督同席の入団会見は「意識飛んでいた」…両親は記念撮影
いつの世も、巨人はスター集団だ。緒方氏の入団時の指揮官は王貞治監督。入団会見で同席しているはずなのだが、「しゃべった記憶がないです。王さんは人格者だから、多分新人一人一人に挨拶されているんでしょうけど、熊本の田舎者じゃ意識が飛んでいますよ。でも親の方は、ちゃっかり王さんと一緒に写真を撮ったみたいです」。実家に帰ったら、その一枚が飾られており、驚いた。
プロのレベルをどう感じたのか。入団会見で「3年後に1軍に上がる」と目標を語ったものの、「バカなことを言ったな」と後悔させられた。「実際に入ってすぐ、難しさがわかりました。2軍とはいえ大学、社会人からやってきた先輩たちのピッチャーが凄いんですよ。高校生では見たこともないようなスピードと球種、キレがある。もう絶対に無理だと思いました」。
最初の宮崎キャンプは、ファンと同様の感覚に陥ったという。当時は1軍と2軍の球場が近かった。1軍のバスが動けば、ファンも動く。選手の姿に歓声が上がる場面を何度も目の当たりにした。「うわーっ、原(辰徳)さんだよ、篠塚(当時・利夫=現和典)さんだよ、クロマティだ、とか僕も言ってました。いっしょのユニホームなのにいっしょじゃない感じ。同じチームなんですけど」。
緒方氏はスイッチヒッターに転向するなど武器を磨き、目標通り3年目の1989年に1軍デビュー。それでも“夢うつつ”は変わらなかった。球界の顔が揃う風景がグラウンドに広がっているのだ。外野を守っていると、この年はレフトに就いていた原がいる。またまた「原さんだよ」。内野に目を移せば「篠塚さんだよ。おっ、中畑(清)さんのお尻だよ。これってテレビで見てたな」と心の中でつぶやいていた。自身もテレビで見られる側の1軍選手になったにも関わらず。
熊本工で球友だった杉本氏は都市対抗で活躍し、監督まで務めた。緒方氏は「良かったですよね」と自分のことのように喜ぶ。同時に自身の18歳で下した選択に頭を巡らす。「僕もそういうのもあったのかなと思いつつ、でも終わってみればプロに入って正解だったのかな」。爽やかな笑顔だった。