槙原寛己を仕留めた「巨人しか知らない」男 憧れの長嶋茂雄氏がつけた“異名”

早稲田実時代の川又米利氏【写真:本人提供】
早稲田実時代の川又米利氏【写真:本人提供】

川又米利氏は小中学で日本一、早実では甲子園に4回出場

 調布リトル、調布シニアで小学生時代にも、中学生時代にも日本一を経験した。早稲田実では甲子園に春2回、夏2回出場し“王貞治2世”と騒がれた。プロでは現役時に燃える男、監督時に闘将と呼ばれた星野仙一氏にかわいがられた。巨人終身名誉監督の長嶋茂雄氏に打撃フォームを絶賛され、教科書通りの打ち方という意味で「ブック」と言われた逸話も持つ……。元中日強打者で野球評論家の川又米利氏の山あり、谷ありの野球人生に迫る。

 1987年4月12日の巨人戦、中日の「7番・右翼」でスタメン出場していた川又氏は巨人先発の槙原寛己投手からホームランを放った。1-0で迎えた7回2死。敵地・後楽園球場のレフトスタンドへ、きれいな逆方向への一発だった。試合はそのまま2-0で終了し、これが星野仙一監督の指揮官としての初勝利だった。巨人打線を完封した小松辰雄投手、先制アーチのゲーリー・レーシッチ内野手とともに、川又氏は勝利の立役者になった。

「星野さんの初勝利でしょ。覚えていますよ。打ちましたからね、槙原から」。星野中日は開幕戦と2戦目を連敗。3戦目での待望の白星だった。プロ9年目の川又氏は開幕戦に「2番・右翼」で4打数無安打、2戦目は「3番・右翼」で3打数無安打1四球、3戦目も2打席目まで無安打で、この年の初安打が3打席目の貴重な一撃だった。「星野さんには最初、レギュラーで使ってもらいましたからね」。1987年はキャリアハイの16本塁打、57打点をマークしたシーズンでもあった。

「ホントは背番号(23)くらいホームランを打ちたいというのがあったんだけどね」というが、現役時代はいぶし銀の活躍が目立った。当時の中日には欠かせない戦力だった。クリーンアップを任されたこともあったし、晩年は代打の切り札としても力を発揮した。代打ホームランはセ・リーグ2位タイの16本だ。また、長嶋氏に「ブック(教科書)」と“命名”されたように美しい打撃フォームだったことでも知られる。

中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】
中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】

中学2年時に長嶋茂雄氏の引退特番に“出演”

「それは実際に長嶋さんから僕が聞いたわけではないんですよ。確か沖縄の石川キャンプだったかな。長嶋さんはキャンプ地巡りかなんかをされていて、僕が打っているのを見て(中日打撃コーチ補佐だった)片貝(義明)さんに『ブックだね』って話になったんだと思う」。東京出身の川又氏は子どもの頃、巨人ファンだった。「王さんと長嶋さんを見て育ちましたからね。ぶっちゃけ、巨人しかわかりませんでしたね」。

 中学2年の時には「長嶋さんが1974年に引退されたでしょ、日本テレビで特番があって、僕はそのスタジオにいたんですよ。調布シニアの何人かと一緒にちょこんと座って」と懐かしそうにも話す。「あの時、石原裕次郎さんとか梶原一騎さんとかそうそうたる方々がゲストで出ておられたのを覚えてますね」。そんな憧れの人に打撃フォームを「ブック」と絶賛された。「長嶋さんに言われたら、そりゃあ、うれしかったですよ」。

 ドラゴンズ一筋19年の現役生活だった川又氏だが、長嶋氏のことを語る表情はファンそのもの。「僕が現役引退後に巨人のキャンプを訪問した時、長嶋監督に『こんにちは』って言ったら『おお、社長』って言われた。おそらくお会いする方がたくさんおられるから、覚えていたとしても飛んじゃったりされるんでしょうね。でも『社長』って無難だなぁ、誰にでも通るなぁって思いましたね。いつのまにか俺、社長になったよって、そんなエピソードもありました」。

 中利夫氏、近藤貞雄氏、山内一弘氏、星野仙一氏、高木守道氏。川又氏が現役時代に仕えた中日1軍監督はこの5人。いずれもお世話になった恩人たちで、とても感謝しているが、長嶋氏に「ブック」と言われたことも「社長」と呼ばれたことも、これまでの野球人生の中で、忘れられない思い出になっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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