監督の交代指示も「納得できない」 若手は直立不動…無茶苦茶なエースの“反抗”
1978年ドラフト外で早実から中日に入団した川又米利氏
燃える男の猛烈アクションに震えた。野球評論家の川又米利氏は、早稲田実から1978年ドラフト外で中日入りした。1979年の1年目は5月に1軍昇格。46試合で打率.277(47打数13安打)、0本塁打、5打点だったが、シーズン終了まで1軍の座をキープした。当時チーム最年少の川又氏の仕事のひとつだったのが、星野仙一投手へのベンチでのお茶出し係。渡した後に「こわっ」と思ったこともあったそうだ。
1978年の夏の甲子園で、早実は1回戦で倉吉北に2-3で敗れた。「あの試合は僕のせいで負けたようなものだった」と川又氏は唇をかむ。6回と8回にいずれも1死二、三塁の場面で回ってきたが、セカンドフライとショートフライ。試合後は涙に暮れた。「甲子園で最後の1本が出なかったから悔しかった。高校野球はこれで終わりと思ったら、やっぱり……」。
そして、次のステージを考える時期がやってきた。早実の大先輩・王貞治氏(ソフトバンク球団会長)にちなみ“王2世”と騒がれたが、「僕自身、どこの球団のスカウトの方が来られているとか、知らなかったし、よくわからなかった」という。それが中日入りとなったのは「スカウトの田村(和夫)さんが学校の先輩だったんです。それで中日が獲ろうか、という話になった。やった、これでプロに行けるって思った。ただ、ドラフト外ということだった」。
ドラフト前は早大進学を打ち出していた。他球団からの指名を封じ込む形になったが「進学を言ってなかったら、よその指名があったかどうかは定かではない。そういう話は聞いたことがなかったのでわからない」という。「縁があって中日に入れたのは良かったと思います。チームにも早実の先輩がいたんです。(内野手で)6歳上の田野倉(利男)さん。だから自分の中で心配することもなく、入っていけたって感じでしたね」。
プロの世界では「キャンプで1年目からやれると思った」と言い切る。「自分の思ったように打てていたんでね。2軍の教育リーグで好結果を残して1軍のオープン戦に呼ばれて、そこでも打っていたし、開幕にも入れるんじゃないかと思っていた」。開幕1軍こそ実現できなかったが「5月に上がって、最後までいられた。スタメンは少なかったけど、代打とかで戦力として見てもらっていたのでよかったと思う」。すべてが貴重な経験でもあった。
星野仙一投手へのお茶出し係も最年少の仕事
「ただ怖かったですけどね。仙さんがいて……。ハンパなかったからね」。試合中のベンチなどで星野投手にお茶を渡すのは、当時チーム最年少の川又氏の仕事のひとつだった。いつも無言で差し出していたという。
「あの時、仙さんは32歳くらいかな、もうベテラン。こっちから話しかけるなんて、もってのほか。声をかけられたら、直立不動だったよ」。KOされた後に「陶器の湯のみを受け取るや否や、地面に投げつけてパーンと割られたこともあった。びっくりした。コワッ、って思った」
湯のみを割ったのは1度や2度の話ではない。これでは無駄になくなっていくだけということで、投げつけても割れにくいプラスチック製に変更になった。これは星野伝説でもあるが、川又氏はある日のベンチ裏での出来事にも仰天したという。「中(利夫)監督が仙さんに『交代』って言ったら、『なんでですか、納得できません』って食ってかかっていたんですよ」。
監督に対しても怒って言い返す姿に、川又氏は驚いた。「最終的には監督が折れて続投になったんですが、結果はノックアウト」。星野投手には後日、何らかのペナルティが課せられたとのことだが……。
川又氏にとって、星野氏は感謝しきれないほどの恩師だ。その喜怒哀楽の部分もよく知っているし、思い出は他にもいっぱいある。本番では常に闘争心むきだし。湯のみ割りも降板拒否も、それを物語るエピソードでもある。でも「あの時はやっぱり怖かったけどね」。川又氏は天国の恩師を思い浮かべた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)