「右でも打てないのに」まさかの両打ち挑戦 剛球に戦慄も…もっと怖かった“鬼軍曹”
元巨人の緒方耕一氏は「右でも打てないのに」と最初は両打ち転向を断った
巨人で盗塁王のタイトルを2度獲得した評論家の緒方耕一氏は、売り物の俊足を生かすべくプロ入り後にスイッチヒッターに転向した。実は当初は転向を拒否していたのだが、「怖かったんですよ」と、“鬼軍曹”が存在したおかげで習得に至ったという。新しいスタイルに懸命に取り組んだ日々を振り返った。
それは入団1年目、1987年夏だった。須藤豊2軍監督が「スイッチをやってみよう」と勧めてきた。だが、18歳の緒方氏はプロのレベルに圧倒されていた。「右打席でも打てないんですよ。なのに左もやれなんて……。無理だと思いました。『いやいや、右だけでお願いします』と最初はお断りしたんです」。
緒方氏は現在、尊敬と親しみを込めて須藤氏を“すーやん”とも呼ぶ。2軍監督は迫力満点の風貌そのままの熱血漢で、指導歴も1968年スタートと経験が豊富。これと見込んだ若者への説得を簡単に収めるはずもなく、「やれ」と言い続けた。「僕はまだ、高校を卒業したばかりでしたからね。須藤さんは本当に怖いんです(笑)。秋には、もう断れなくなってました」。
左打席の特訓は、試行錯誤を繰り返した。2軍の町田行彦、末次利光両コーチは右打ち。アドバイスを求めようにも指導者は誰もいない。1軍にスイッチで“青い稲妻”と称された松本匡史外野手が在籍していたが、雲の上の人。「自分でいっぱい考えながらの練習でした。よく『左手で箸を持って』とか言われていたので、一応やってみたんですけど……。僕にはあんまり意味がなかった」。素振りやティー打撃でもなかなか手ごたえがつかめなかった。
指導者は誰もおらず独学…1日500本のバント練習で「ポイントをつかめた」
ひとまず「バントだけ1日500本やれ」と指令を受けた。一塁側、三塁側への転がす方向や片手、セーフティ、ドラッグなど多彩なメニューをこなした。これが緒方氏には効果的だった。「結局、僕らみたいな選手はバントが必要」と武器を磨けただけでなく、思わぬ副産物として「インコースはここら辺で打つのかな。アウトコースはここか、と。打つポイントが大体つかめてきたんです」。
迎えたシーズンオフ。当時の巨人2軍はチームとして、メジャーの卵の1A、2Aの選手が集う米国アリゾナのリーグ戦に参加していた。ここで緒方氏は、ほぼ初めて左打席でのマシン打撃を行った。すると、たった数日後に首脳陣が「試合で左打席に立て」と命令するではないか。いきなりの実戦がやってきてしまった。
相手の米国人は黒人のパワーピッチャー。おまけに左打席の緒方氏の内懐に食い込んでくるような球筋を描いた。「『うわーっ、こんなボール怖いよ。ヤバいよ』と。バットが全く振れず、あっという間に2ストライクに追い込まれたんです」。恐る恐る振り向くと、そこには鬼の形相が。「ベンチを見たら、須藤さんの方がもっと怖かったんです(笑)。こりゃ見逃し三振だけは駄目だ、と考えました」。
ほとんど無理やり気持ちを奮い立たせ、打席に入り直した。「ボールがとにかく速いので、もう相手が投げた瞬間に振ろうと」。まだ修行ほやほやのスイングを繰り出すと、バットに当たった。「ピッチャーの足元に強い打球がポーンと行ったんですよ。『あっ、センター前に抜けるかな』と思ったら、ショートが飛び出してきてファインプレーされてアウトになっちゃいましたけど」。
左での初打席は、緒方氏に大きな意味をもたらした。「内容が良かった。『もしかしたら、やれるかな』と、その1打席で思いました。2年目のファームの開幕からは、最初からスイッチをやりました」。2年目は2軍で盗塁王に輝き、実績と自信を得て3年目の1軍昇格へとつなげることができた。
緒方氏は自身の体験を踏まえ、スイッチ習得を目指す選手に「バントの練習を毎日やるのは良い方法かもしれません」と提案する。そして何より、野球人生の基礎を固めてくれた須藤氏に感謝している。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)