米国留学を直訴も却下… 高卒即活躍の“順風満帆”で消えた夢のメジャー挑戦

元中日・上原晃氏【写真:山口真司】
元中日・上原晃氏【写真:山口真司】

沖縄出身の上原晃氏…米国のTV放送を通じてMLBに憧れを抱いた

 元中日投手で1988年の優勝に貢献するなど活躍した上原晃氏は子どもの頃から「メジャーリーグで投げたい」との夢を持っていた。「球が速くて、三振が取れるピッチャーが好きだった」と言い、160キロ超のストレートなどを武器にMLB最多の通算5714奪三振をマークしたノーラン・ライアン投手に憧れていた。その思いは沖縄水産高を経て中日入りしてからも不変で、米国留学希望を星野仙一監督に伝えたこともあったという。

 上原氏は宜野湾市立普天間第二小学校5年生の時に野球を始めた。「クラスメートから野球をやらないかって誘われたんですけど、チームには僕を入れて3人しかいなかった。だから、まず9人集めることから始まりました。何とか集めて、市の大会では優勝したんですよ」。ポジションは最初ファーストで途中からピッチャーに。「もう野球にのめり込んで、一生懸命やったという感じでしたね」。

 とにかく野球が大好きだった。「普通の野球少年と一緒でプロ野球選手になりたいと思っていましたが、その頃から大リーグにも憧れていましたね。ライアンが大好きでした。いつかメジャーで投げたいって夢もありましたよ」。小学校の横が米軍の普天間基地という環境。「テレビでアメリカの放送が入るチャンネルがひとつあったんです。何を言っているのかわからなかったんですが、野球も見られました。むっちゃスゲーって感じでその映像を見ていました」。

 メジャーへの思いはずっと継続した。沖縄水産高時代、上原氏は栽弘義監督宅に下宿していたが「栽先生もすごい大リーグ通だった。家にはその関係の本がいっぱいあった。往年のメジャーの選手のことが書かれた本とかね。それも勉強になった」。むしろ、憧れは増していった。ライアンのようなスピードボールを投げたいと考えた。高校時代にストレートは140キロ台前半まで出せるようになったが、帽子には「160」と目標数値を書き込んでいた。

入団2年目…星野監督に米国行き直訴も「却下されました」

 中日入団後も「その上を目指したいという気持ちもありました」と明かす。上原氏はプロ1年目の1988年後半に1軍に昇格し、リリーフ投手として中日優勝の立役者になった。その年は4歳年上の山本昌投手がドジャースに留学。アイク生原氏の指導とスクリューボールを覚えて米国で急成長し、シーズン途中に帰国した。山本氏は終盤、星野中日の大きな戦力になったが、米国野球に触れたかった上原氏にはうらやましく見えたという。

「アイクさんが(1989年の中日キャンプに)来られた時に、半分冗談ですけど『アメリカに僕も連れていってください』と言ったことがありました。最後は星野さんにも伝えて、却下されましたけどね」。山本氏は伸び悩んだ末のプロ5年目での米国留学だったが、上原氏はルーキーでいきなりセットアッパー的な存在になるなど、その時点で既に中日には欠かせない戦力。さすがの星野監督も上原氏を一時的でも手放すことはできない状況だった。

 しかしながら、もしも上原氏が早い段階で、山本氏のように米国へ留学していたらどうなっていたのだろうか。5年目に野球人生を暗転させる血行障害に見舞われたが、それも回避の可能性があっただろうか。結局、故障が仇になって、球速はMAX151キロどまり……。夢のままで終わったメジャー挑戦。現在は整体師で、東海学園大の投手コーチでもある上原氏は、ライアンを目指した当時がとても懐かしそうだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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