「土を持って帰るな」 先輩から厳命…聖地で“悪夢”体験、16歳で「もうボロボロ」

沖縄水産時代の上原晃氏【写真:本人提供】
沖縄水産時代の上原晃氏【写真:本人提供】

上原晃氏は沖縄水産で1年夏から計4度甲子園に出場した

「沖縄の星」と呼ばれた。元中日右腕の上原晃氏は沖縄水産で1年夏、2年春、夏、3年夏と計4度甲子園に出場した。技術は年々レベルアップ。「あの当時、沖縄も大盛り上がりで、大臣が先か、甲子園優勝が先か、なんて言われていましたね」。しかしながら、聖地は上原氏にとって試練の場所でもあった。1年夏は自身のサヨナラ暴投で3回戦負けの悲劇。ボロボロになった思い出などを振り返ってもらった。

 沖縄水産に進学した上原氏は親元を離れ、栽弘義監督宅での下宿生活をスタートさせた。普天間中学時代から評判の右腕だっただけに期待は最初から大きかった。「栽先生のところには僕を含めて3人が入りました。高校に寮はあって、野球部員もほとんどがそこに入っていたんですが、当時、たぶん先輩、後輩とかのいろんなことまで先生は心配してくれていたのかなって思います」。野球漬けの日々だった。「休みは正月に2日間だけでした」。

 デビューは1年春の九州大会1回戦、門司高(福岡)戦だった。「僕が入学する前に先輩たちが勝ち取った九州大会に僕も連れていってもらった。門司戦ではリリーフで1イニングか2イニングを投げて無失点だったと思います。新聞にも『楽しみな1年生』と扱ってもらった記憶があります」。その大会、沖縄水産は準々決勝で東海大五(福岡=現・東海大福岡)に敗れたが、上原氏はその試合でもリリーフ登板。いきなり戦力になっていた。

 夏の沖縄大会ではコザ高との3回戦に先発して好投し、勝利に貢献した。準決勝の豊見城南戦もリリーフで結果を出した。決勝の興南戦は出番なしだったが、沖縄水産が7-5で勝利。上原氏は1年夏から甲子園の舞台に臨んだ。PL学園の清原和博内野手、桑田真澄投手のKKコンビ最後の夏としても注目を集めた大会で、沖縄水産は函館有斗(南北海道=現・函館大有斗)との1回戦に11-1で勝利。上原氏も9回にリリーフ登板して無失点。まずは無難な聖地デビューだった。

1点リードの9回裏に押し出し四球で同点…暴投でサヨナラ負けを喫した

 試練はこの後にやってきた。3-1で沖縄水産が勝った旭川竜谷(北北海道)との2回戦は登板なし。悪夢は3回戦の鹿児島商工(鹿児島=現・樟南)戦だった。2点リードの7回途中から背番号「11」の上原氏はマウンドに上がった。その回、1点を失ったが、8回はゼロ。1点リードで迎えた9回に1死満塁のピンチを招き、ストレートの押し出し四球で同点、さらに暴投でサヨナラ負けを喫した。

「もうかなりの緊張状態だった。思い切り投げるしかなかった」。球種はストレート以外に「今でいうツーシーム、縫い目を外した真っ直ぐがあった」という。「栽先生に教えてもらった動くボールなんですけど、これが(右か左か)どっちかに変化するんですけど、どっちに変化するかは自分でもわからなかったんです。キャッチャーが止めてくれるような状態でした。最後の暴投はその球です。それがワンバンしちゃって……」

 1年生でベンチ入りは1人だけ。もう1人、3年生の控え投手がいる中での痛恨のリリーフ失敗だった。「勝てばベスト8で国体出場の権利がもらえたので、それをつぶしてしまって申し訳なくて……。試合後、先輩たちに『お前は甲子園の土を持って帰るな、自分たちの代で取ってこい』って言われて、先輩たちが土を集めている間、泣きながら待っていた」。球場内でのマスコミ取材では「何を言ったか全然覚えていない。記憶がない。泣き崩れていたような感じだったと思う」。

 16歳の高校1年生にはあまりにも残酷な結末だったが、それで終わりでもなかった。「翌日、先輩たちは観光のため、まだ(大阪に)滞在していたんですが、僕と栽先生は沖縄に帰ったんです。次の日に新人戦があったんで、それに出るためにね。でも、投げて打たれて負けたんです。興南高校に。この年の夏はもうボロボロでした。何をすればいいのかわからない状態でした……」。いきなり追い込まれた「沖縄の星」。まさに悪夢だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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