甲子園4度出場の剛腕を“強行指名” 進学希望から一転…ドラフト当日は「記憶がない」

元中日・上原晃氏【写真:山口真司】
元中日・上原晃氏【写真:山口真司】

沖縄水産で甲子園に4度出場…上原晃氏は明大進学が希望だった

 沖縄水産高校で4度、甲子園に出場し「沖縄の星」と呼ばれた上原晃氏は、1987年11月18日のドラフト会議で中日から3位指名を受けたが、その日のことは「そんなに記憶がない」という。明治大に進学予定で、進路に関してのマスコミ対応はすべて沖縄水産・栽弘義監督に任せていたからだ。当時、プロとの接触が認められる退部届もドラフト当日の段階でも出しておらず、入団拒否の構えでいた。

 1987年、上原氏の高校3年時の夏の甲子園は、2回戦で常総学院(茨城)に0-7で敗れて終了した。「でも常総学院にはやり返したんですよ。国体で」と笑みを浮かべた。地元・沖縄で行われた「海邦国体」に出場し、準決勝で常総学院を3-2で撃破。上原氏は完投でリベンジした。「あの時は沖縄が盛り上がったんです。今でもその時のことを話してくれる人がいるので、ああ、よかったなって自分でも思っています」。

 決勝は帝京(東京)のエース、芝草宇宙投手(元日本ハム、ソフトバンク)との投げ合いに0-1で惜しくも敗れたものの、上原氏にとって忘れられない大会になった。この年は立浪和義内野手(現中日監督)が主将のPL学園(大阪)が甲子園春夏連覇を達成したが、国体では準々決勝で敗退。「帝京がPLを破ったんですけど、あとでタツ(立浪氏)に聞いたら、あれが初めて負けた試合だったらしいです。それも凄いなって思いましたね」と、上原氏は懐かしそうに話した。

 この国体の時には、翌1988年シーズンから立浪氏と中日で同僚になるとは上原氏も当然、思ってもいなかった。甲子園を沸かせた「沖縄の星」の進路は当時、明大進学が既定路線と言われていた。上原氏本人もこの時点では大学進学をメインに考えていた。「明治のセレクションも受けました。大学は明治だけだったと思います」。これには栽監督からのアドバイスもあったという。「栽先生には、明治とのパイプを作りたいというのもあったんじゃないでしょうか」。

 明大のセレクションでは島岡吉郎監督とも対面。「お体が不自由だったので、お付きの方と車椅子に乗ってでしたが、島岡さんの横でピッチングをして『いいボールを投げるね』って声を掛けられたのを覚えています」と振り返った。「ちょっとした筆記試験も受けましたし、(明大の)合宿所にも行きました。あの時、武田(一浩)さん(当時明大4年、元日本ハム、ダイエー、中日、巨人)が顔を出してくれて『来るんか』と言われて、お話させていただいた記憶もあります」。

沖縄水産時代の上原晃氏(右)【写真:本人提供】
沖縄水産時代の上原晃氏(右)【写真:本人提供】

栽監督は「半年間は上で使わないでほしい」と中日側に要望

 上原氏には「プロ野球選手になりたい」という夢はずっとあった。「メジャーリーグで投げたい」とさえ思っていた。だが、その時は甲子園で優勝できなかったし、自身の未熟な部分も感じており、大学を経て4年後を目指すのが基本的プランだった。当時、今のようなプロ志望届制度はなく、退部届を出してはじめてプロと接触できることになっていた。明大進学を熱望した上原氏は、その退部届をずっと出さなかった。それがプロ拒否の意思表示みたいなものでもあった。

 ただし、現在のプロ志望届とは違い、退部届を出していなくてもプロがドラフトで指名することはできた。その状態で、中日は上原氏をドラフト3位で強行指名した。もちろん、その裏には星野仙一監督が明大OBということもある。上原氏がプロ野球に全く興味がないわけではないとの情報も、つかんでいたと思われる。実際に、星野監督は自身の恩師でもある島岡監督に頭を下げ、すべて状況を整えてから、上原氏を口説きに動いた。

「星野さんが島岡さんのところに行った時、灰皿が飛んできたとか、そういう話は後になって聞きましたけどね」と上原氏は話す。「でもドラフト会議の日のことはそんなに記憶にないんですよ。指名は学校で知らされたんだったかなぁ。会見も何もしていないと思う。退部届も出していなかったし、僕はコメントを出したつもりはない。その辺は栽先生が対応したと思う」。中日との窓口役も栽監督で、星野監督と会うことになった時にようやく退部届を出したそうだ。

「星野さんとは確か沖縄のホテルで会ったと思う」。そこで熱く口説かれた。「『一緒にやろう』って感じだったんじゃないかな」と、上原氏はあえて多くを語らないが、それこそ、闘将の巧みな話術も全開だったはずだ。明大への筋も通され、断れない雰囲気にもなったことだろう。結果、上原氏は明大進学から一転、プロ入りを決意したが、その中で栽監督は「半年間は上で使わないでほしい」と要望していたという。

「栽先生は僕の体のことを気遣ってくれたんです。暑い沖縄から本土に行くから、体もすぐには対応できないだろう、怪我につながったからいけないからってね」。入団までにはいろいろあったが、1988年、プロ1年目の上原氏はシーズン後半から1軍に昇格し、抑えの郭源治投手につなぐセットアッパー的な存在で、中日優勝に大きく貢献した。星野監督も入団交渉時の約束通り、上原氏を後半から1軍で使って躍動させたわけだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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