ぶっ倒れながら3連投 忘れられぬ決死の大会…ボロボロの高2右腕が感謝した“魔法の薬”
上原晃氏は栽弘義監督との“風呂場談義”からフォーム修正…復調した
元中日投手の上原晃氏は沖縄水産高校2年時の1986年、エースとして春夏連続で甲子園に出場した。1年夏の甲子園での鹿児島商工(鹿児島=現・樟南)との3回戦で痛恨のサヨナラ暴投。その悪夢から立ち直ったが、決して順風満帆だったわけではない。2年夏の沖縄大会では準々決勝に勝利して「ミーティング後に倒れてしまったんです」。そんな状況下で、準決勝、決勝と3連投で勝ち上がった。その裏には「魔法の薬」効果があったという。
1年夏の甲子園3回戦で自らのサヨナラ暴投で敗戦。その翌日、沖縄水産の先輩たちが観光を楽しむ中、栽弘義監督と上原氏の2人は新人戦のために沖縄に戻ったが「興南高校に打たれて負けました」とボロボロ状態だった。そこから調子を取り戻すきっかけになったのは「どこだったかの遠征先で栽先生と風呂場で話して、ちょっとノーワインドアップにしてみようって。そしたらフォームのブレが少なくなって、コントロールが良くなったんですよ」。
そのまま1年秋の沖縄大会に突入し、決勝で興南に6-4でリベンジ。上原氏は11安打を許しながらも気迫の完投勝利だった。「興南に勝たないといけないって気持ちだったんでうれしかったですね。この頃からスライダーも投げていたと思う。まだ完全じゃなく、大会中に覚えながら試行錯誤しながらだったですけどね」。九州大会も準優勝で選抜出場を確定させた。1年夏の悪夢の後も苦しんだが、何とか乗り越えた。
2年春の選抜大会は1回戦で上宮(大阪)に1-3で敗れたが、上原氏は10三振を奪った。「本土の寒さの中で投げていた記憶がありますが、真っ直ぐで空振りも多く取れたというのが良かった」。敗戦は悔しかったが、成長を感じ取る収穫ありの春だった。そして2年夏の沖縄大会。忘れられないのは3連投になった準々決勝、準決勝、決勝の3試合という。8-3で勝った準々決勝の相手は普天間高。「僕の地元の学校で、中学の先輩相手に投げて勝ったんです」。
高2夏は沖縄大会準々決勝後に倒れるも点滴で復活…3季連続甲子園をつかんだ
中学時代を思い出しながらの力投だったが、その後にアクシデントがあった。「終わってミーティング後に球場の外で倒れたんです。暑くて立ちくらみがして……。栽先生と病院に行って、点滴を打ってもらった」。翌日も万全ではなく、再び点滴を打ってから準決勝に臨んだという。不安いっぱいのマウンド。ところが本番は絶好調だった。「1安打完封したんです。1安打もイレギュラーヒット。自分の中では完璧でした。点滴ってなんだろって思いましたね」。
その準決勝で対戦した美里高には同学年のライバルがいた。「僕が普天間中学の時にいつもやられていた美里中の4番バッターだった新城調(しんじょう・みつぐ)。僕の親友でした。沖水にも一緒に行こうって話だったんですけど、結局、あいつは美里高に進んで……」。5-0で勝った試合。「新城が最後の打者だったと思う。あいつには真っ直ぐだけ、スライダーは一切投げなかった。純粋に対決した」。
結果は「もうちょっとでホームランの大きなセンターフライだった」という。「あいつは高校までで野球をやめちゃったけど、いいバッターだったんですよ、ホントに。病気で亡くなっちゃったんですけどね」。上原氏は寂しそうな表情を見せながら、親友との思い出の試合を振り返った。
決勝の興南戦も準決勝同様、点滴を打ってから試合に臨み、激戦になったが、2-1で勝利した。上原氏は6安打完投。準々決勝後にぶっ倒れながら、準決勝、決勝までの3連投を乗り切った。点滴に感謝だった。
「『点滴って何が入っているんですか』って看護師さんに聞きましたよ。『ブドウ糖だから砂糖水と一緒だよ』って言われて、えーって思いましたけどね。もう本当に、あの頃はそれが魔法の薬みたいな感じでした」。こうして上原氏は3度目の甲子園切符をつかんだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)