外野は「全然面白くなかった」 MVP捕手が回顧…巨人移籍で再確認した元ポジションの魅力

元巨人・中尾孝義氏【写真:中戸川知世】
元巨人・中尾孝義氏【写真:中戸川知世】

「外野手が“1”考えていることに対して、捕手は“100”くらい考える」

 コンバートされたことによって、元のポジションの魅力を再認識するケースがある。中日時代の1982年にセ・リーグの捕手として初めてMVPに輝いた中尾孝義氏も、その1人だった。1988年に外野へ転向したが、翌89年に巨人移籍とともに捕手復帰。カムバック賞を受賞する活躍を演じた。「もう1度、キャッチャーをやれるうれしさしかありませんでした」と振り返る。

 32歳で1988年シーズンを迎えた中尾氏は、故障が増えていたこともあって外野にコンバートされた。「全然面白くなかった。こういう言い方は外野手に失礼だけれど、僕の経験上、外野手が“1”考えていることに対して、捕手は”100”くらい考えている。楽にはなったが、つまらなかった」と述懐する。正捕手の座には、当時高卒4年目の中村武志氏が就いた。「外野からだと、捕手のリードを客観的に見ることができる。自分も前年まではそうやって見られていたのだろうけれど、正直言って首をかしげるところもありました」と胸の内を明かす。

 だからこそ同年オフ、当時の巨人・藤田元司監督に請われ、捕手としてトレード移籍となったのは、渡りに船だった。「噂では、巨人の正捕手で僕と同い年の山倉(和博氏)の成績が低迷していたことから、僕を獲って刺激を与え、もう一花咲かせる狙いがあったと聞きました。1軍の捕手には、5歳上の有田修三さんもいました」。藤田監督から、当時伸び悩んでいた斎藤雅樹投手について「おまえのリードで何とかしてやってくれ」とミッションを与えられたことも、やる気に油を注いだ。

「キャッチャーの楽しさは、第一に打者との駆け引き。前の日から、味方の先発投手はわかっているので、相手の各打者の攻め方をシミュレーションする。そういうことが楽しいのです」と中尾氏。一方で、捕手はマスク、レガースを装着する分、夏場の蒸し暑さは格別だが、「それもね、当時中日の本拠地は屋外のナゴヤ球場で、涼しい東京ドームに移ったから、すごく楽でした」と笑う。

内角を強気に突くリードが巨人投手陣にフィット

 巨人移籍初年度の1989年、捕手ではチーム最多の86試合に出場。ゴールデングラブ賞とベストナインを受賞する活躍で、チームのリーグ優勝と日本一に貢献し、カムバック賞にも輝いた。特に斎藤氏をリードしてシーズン20勝に導いた功績は大きかった。

「プロとしては決してほめられることではないけれど、僕はチームメートの捕手をライバルだと思ったことはない」と中尾氏は言う。「何が何でもレギュラーを獲ろうという欲が足りなかったこともあるが、内心では常に自分が一番うまいと思っていた。ライバルは自分自身。自分のおごりを戒め、コンディションを整えることだけを心がけていました」と真意を明かした。

 先輩の有田氏とも仲が良く、たびたびリード談義を交わしたとか。「おまえのリードは、ちょっと怖いところがある」と言われたこともあった。中尾氏の持ち味は内角を突く強気のリード。「もともと僕には、打者の得意なコースの近くに弱点がある、という考えがあって、コントロールミスで(打者の)得意な所にいけば墓穴を掘ることになったし、うまくハマれば抑えることができた。そのあたりが有田さんの目には、冒険し過ぎと映ったのではないかな」と記憶をたどる。

 中尾氏のリードが、当時の巨人投手陣にフィットした面もあった。「斎藤、槙原(寛己氏)には球威抜群のストレートがあったし、桑田(真澄氏)、広田(浩章氏)、松谷(竜二郎氏)はシュートがよかったから、内角攻めが効果的だった」と感謝。一方で、「もともと僕が内角を攻めるようになったのは、当時の中日投手陣の力量が、巨人や広島に比べると不足していたから。ありきたりのリードでは抑えられないと感じていたからです」と付け加える。

 捕手の楽しさを再発見し、華やかなプロ野球生活第2章を刻んだ中尾氏。いったん外野にコンバートされ、客観的に捕手というポジションを見つめ直すことができたからこそ……と言えるかもしれない。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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