初回から肩を作って登板は8、9回 キャリアハイも後に“影響”…過酷だったリリーフ業

東海学園大投手コーチを務める、元中日の上原晃氏【写真:本人提供】
東海学園大投手コーチを務める、元中日の上原晃氏【写真:本人提供】

上原晃氏は1991年に救援で自己最多8勝「1試合で何回も肩を作った」

 元中日投手の上原晃氏が挙げたキャリアハイの勝ち星は、プロ4年目1991年の8勝だ。2年目から先発に転向したが、この年は1年目のようにリリーフで結果を出した。星野仙一監督が退任したシーズン。中日は首位を走りながら、終盤に広島に逆転され優勝を逃したが、上原氏は数字を残したこともあって「自分の中でも充実感はあった」と話す。ただ、振り返れば、この頃にこそ大いに考えさせられる事象があったという。

 1991年、上原氏は開幕を2軍で迎えた。1軍に上がったのは5月になってから。先発ではなくリリーフ要員としての昇格だった。5月14日のヤクルト戦(金沢)に2番手で登板し、4回無失点で勝利投手。続く6月はリリーフで4勝をマークした。この時点で5勝0敗。「覚えていますよ。充実していました。やっぱり僕は自分の中で(優勝に貢献した)1年目がよかったみたいに、5勝0敗とか圧倒的な活躍をしないと満足していない感じだったんだと思います」。

 数字が上原氏をさらに鼓舞した。オールリリーフの46登板で、8勝4敗。防御率は4.48だったが、勝ち星でチームに役立ったのが何よりもうれしかった。「基本的には先発をしたかったんですけど(2、3年目は先発で)成績を残せなかった中でのリリーフ。自分の生きる道はやっぱりこっちなのかなと思って投げていました」。

 しかし、当時を思い起こせば複雑な思いも出てくるという。「あの頃のリリーフは1回から肩を作って、8回とか9回に投げることもあった。1試合で何回も肩を作っていたんですよ。今みたいに役割がはっきりしていなかったし、そういう時代だったので、仕方ないのかなって思いますけど……」。実際、リリーフで登板したら2イニングは当たり前、4イニングくらいは平気であった。後に故障で苦しんだ上原氏にしてみれば、やはり無理はしていたことにはなるだろう。

現在は整体師で大学生のコーチ「ベストな状態でマウンドに」

「僕は肩を作るのに時間もかかったんです。ブルペンでの球数も増えますよね。昔、鹿取(義隆)さん(元巨人、西武)が10球で肩を作るって聞いて、すごいなって思っていました。僕はそういうのはできなかったし、そこらへんもリリーフ向きじゃなかったんじゃないかな、とは思います。もちろん今考えれば、ですけどね。あの頃は無我夢中なので、そういったのを言い訳にしてはいけない時代の中でやっていましたから……」

 上原氏は1年目のジュニアオールスターでウエスタン・リーグの抑えを務め、セーブをマークした。星野監督はそれを見て上原氏を後半戦から1軍のリリーフで使った。それが大成功。剛速球ルーキーとして名を馳せたわけだが、1年目から1軍でも先発で使われていたら、また違う展開になっていたことだろう。もちろん“タラ、レバ”を言い出したらキリがないが、上原氏の野球人生はそういうことを考えさせられるケースが多いのも事実だ。

 現在、整体師であり、東海学園大の投手コーチも務める上原氏は学生たちのコンディションには特に神経をとがらせている。「今は教える立場でもありますし、選手をなるべくベストな状態でマウンドに上がらせたいと思っています」。キャリアハイの勝ち星をマークしたプロ4年目の経験も、今のコーチ業にきっちり生かされている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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