突然の戦力外に「職がなくなる」 生え抜きスターでも…わずか10分で立たされた“瀬戸際”

ヤクルト、楽天で活躍した飯田哲也氏【写真:荒川祐史】
ヤクルト、楽天で活躍した飯田哲也氏【写真:荒川祐史】

突然の非情通告も…楽天の新規参入で現役の道が開けた飯田哲也氏

 プロ野球選手も、ユニホームを脱ぐ日がいつかはやって来る。球界の秋は、引退や戦力構想外などのニュースが飛び交う季節でもある。走攻守3拍子そろった外野手としてヤクルト、楽天で活躍した野球評論家の飯田哲也氏に、現役時代終盤の体験を語ってもらった。

 選手生命の瀬戸際は突然訪れた。「『えーっ、嘘でしょ』みたいな感じでした。クビとか全く考えていなかったので……。頭の中は、真っ白ですよ」。飯田氏はそう回想する。

 36歳だった2004年、1軍出場は3試合。9月に埼玉・戸田のヤクルト2軍施設での練習後、球団の編成担当から呼ばれた。「話がありますので、残っていて下さい」。赴くや即座に「来季は契約しない意向ですから」と通告を受けた。

 2002年に左膝を怪我。「足のスピードがなくなってきて。僕からスピードを取ったら魅力がないので、そろそろかな……と感じた時もありました。でも治しましたし、1軍に向けて、まだまだやれると思っていましたね」。飯田氏は盗塁王のタイトルを獲得し、ベストナイン1度、ゴールデングラブ賞7度の実績を誇る。チームのリーグ優勝5度、4度の日本一に貢献した生え抜きのスター選手。それでも、指導者やスカウトなど球団内のポストの打診は特になかったという。

「ヤクルトで選手を終わるか、究極の選択ですよね。仕事をいただけるのであれば、多分やめてます。だけど次の話が何もなくて……。じゃあ、どうしようと。『どこか他のチームを探してもらえませんか』とお願いしました。職がなくなってしまうわけですから。仕事がないんじゃ、(他球団で現役を)やるしかないということです」。時間にしてわずか10分程度のやり取りで、愛着ある球団から離れることになった。

 飯田氏は現役続行の道が開けることを信じ、ヤクルトの施設の利用許可を得て練習を続けた。しかし、保証はない。「本当に怖かったです。一番は仕事がないことが」。

“昔の飯田ではない”動きに恩師・野村監督も「もうええやろ」

 飯田氏が苦闘していた時期、プロ野球の歴史が大きく動いた。楽天の新規参入が決まったのだ。かつてヤクルトでコーチなどを務めた松井優典氏が2軍監督として入団することになり、飯田氏に電話で獲得の意思を連絡、無償トレードの運びとなった。「松井さんから話をうかがった時は『良かったぁ』って安堵しましたよ」。

 移籍1年目は「ヒットでいいや、みたいな力みの抜けた感覚」で打撃が良くなったという。出場54試合で打率.331をマーク。「3割打ったので、これならクビはないだろうと安心感がありました」。2年目の契約を見事つかみ取った。そのオフに野村克也氏が新監督に就任した。ヤクルト時代の恩師で、飯田氏を知り尽くしている。

 結果的に現役ラストイヤーの2年目も40試合出場で打率.273など、まずまずの成績を残した。だが「野村さんの中の“飯田哲也像”があるわけじゃないですか。でも動き的には僕は、もう昔の飯田じゃない。当たり前なんですが。守備でも若い時には捕れたボールを捕れなかったり。『飯田、落ちたなぁ』って言われたんですよ」。

 シーズン残り10試合もない頃。遠征先の宿舎で、編成担当から来季の契約更新がないことを示唆された。翌日には球場で野村監督から「もうええやろ」との言葉を送られた。「ノムさんに言われたら、もうどうしようもない。終わったと」。10月に引退試合に臨んだ。

 飯田氏はヤクルト時代終盤の2軍生活を、「若い選手に変なところは見せられない。必死でした」と振り返る。楽天はできたてほやほやの球団で、「僕が知っていることを全部教えよう」とプレーした。真摯な姿勢を最後まで貫いた。

 引退後は、古巣ヤクルトのコーチに就任。以降も解説者、ソフトバンクのコーチ、母校の拓大紅陵高校(千葉)のコーチに携わる。「現役選手には、覚悟を持って1年間を過ごしてほしいと伝えたいですね。そして、人が見てないようなところでもしっかりやる。礼儀とか、見ている人は見てくれていますから。僕もたくさんの人に非常に助けられて、運よく仕事をやらせていただいています」。野球との縁を結び続けてくれる周囲に、感謝を込めた。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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