潰されそうな心に「光」を灯したイチロー氏 ヨネスケさんが41年かけて実現させた“夢”
落語家でタレントのヨネスケさんはメジャー全球場での観戦を実現させた
ヨネスケさんの目は潤んでいた。
齢(よわい)75を算えて「メジャー全チーム巡礼の旅」を結願。最後の地、ワシントンDCのナショナルズ・パークを背にして万歳のポーズを取った。メジャー好きが高じて生まれた目標に41年の歳月をかけた。その感慨は、ほかでは得ることのできないものだった。
「エベレスト登頂の気持ちでしょうか。登山家はエベレストを目指します。野球ファンである私は、世界最高峰の野球リーグの踏破を目指しました。ですからこれは、きっと、エベレスト登頂と同じ感情なのではないかと。勝手な想像ですけど。感無量です」
落語家「桂米助」として寄席の高座に上がり、「ヨネスケ」としてタレント業でも活躍。近年はYouTubeでも人肌を感じさせる温かい人柄と軽妙なトークで活動の輪を広げている。無類の野球好きでも知られ、同じ千葉県出身の長嶋茂雄に憧れプロ野球のとりこになると、巨人との国際親合で来日したドジャースのプレーを見てまるで落雷にあったように打ちのめされた。メジャーリーグが“大リーグ”と呼ばれていた時代の1966年(昭和41年)であった。
メジャー巡礼の起点は1982年のシアトル。当時、パ・リーグの広報部長を務め「パンチョ」の愛称で親しまれていたメジャー解説の第一人者、伊東一雄氏(2002年他界)に誘われ訪れたのがマリナーズの本拠地キング・ドームだった。
「鮮やかな天然芝のフィールドよりドームでの試合が見たかったなんて言うと、今じゃきっと変な顔をされますよ。だって、日本はほとんどがドームでしょ。だからあの日は朝から興奮しててね。で、パンチョさんと中に入るとそこは異次元の空間という感じで。なんたって体育館の中で打っているような打球音にビックリ。鳥肌が立っちゃって。そりゃ感動以上のものがありましたよ」
日本初の屋根付き球場として産声を上げた東京ドームができる6年前のことだ。シアトルの異次元空間は、名人と謳われる四代目桂米丸師匠の人気演目の一つ『玄関の扉』のごとく、ヨネスケさんのライフワークになる入り口になった。
1990年にマイナーの試合で始球式…大暴投に「どっと沸いた」という
あの日から巡った球場で最も印象に残っているのはどこだったのだろうか――。単純な問いかけをすると、意外な答えが返ってきた。
「歴史がいちばん古いレッドソックスのフェンウェイ・パークや2番目に古いカブスのリグレー・フィールド、それかベーブ・ルースやルー・ゲーリッグが躍動した旧ヤンキー・スタジアムがくると思ったんじゃないですか? でもね、私にとっての1位は、プールがあるダイヤモンドバックスのチェイス・フィールドです。粋じゃないですか。試合を見ながら泳げるんですから。これぞボール・パーク!」
生業が育んだ人を楽しませる視線が際立つ。
重ねてきたひと夏の旅は、今回、9月下旬からの11日間で3都市を巡った。ロジャーズ・センター(トロント)、グレート・アメリカン・ボール・パーク(シンシナティ)、ナショナルズ・パーク(ワシントンDC)を移動日なしの強行日程で消化。ヨネスケさんは、競技への敬意から途中で抜けることはしない。記者席に根をおろし、観戦した9試合すべてにスコアをつけている。
もっとも、これまでの道中ではマイナーに足を運び、そこで噺家らしいエピソードも作っている。では、一席お聴きいただこう。
1990年のこと。親交があったスポーツジャーナリストでホワイトソックス傘下マイナー2Aのバーミングハム・バロンズの社長に就いていたマーティ・キーナート氏と再会。いきなり始球式を懇願され快諾。球場は収容人数を超えるほどにぎっしり埋まっていた。
噺家の血が騒いだ。
「大暴投ですよ、バックネットにぶつける。どっと沸きましたよ。気分よかったぁ。で、手を振りながら笑顔でマウンドを降りたんですが、こっちを向いて大声を上げている人が何人もいることに気付きました。サインを求められているのかなと思って、パンチョさんに聞いたら『早く引っ込め!』の罵声だったんです(笑)。映画のワンシーンのような、あの大歓声にもたくさん野次が混ざってたんでしょうねぇ」
映画監督スパイク・リー氏との秘話「嘘のような本当のお話です」
アメリカで初体験の始球式は、所属する落語芸術協会の市松模様の浴衣で投げる演出をした。笑い、しゃべり続けたヨネスケさんが、今度は、記者に見覚えのある情景を連れてきた――。
野茂英雄がトルネード旋風を巻き起こした1995年の夏の日。相撲通でもあるヨネスケさんは、関係者から贈られた真垣親方(元二代目若乃花)の名前が入った浴衣を着てドジャー・スタジアムに現れた。フィールドに出ると、カメラを手にした小柄な黒人男性が近づいてきた。浴衣姿に興味を持った様子で、撮影に応じた。
「その方が、この年からずっと通訳をしてくれている宮内さんに『ところで彼は誰なのかな?』と聞いているんです。落語家と伝えてもピンとこないだろうということで、宮内さんが盛りました。当時、大人気だったコメディアンのジム・キャリーに喩えたんですよ。でも、その方の表情は晴れない。で、私も誰だかわからないから勇気を出して聞きました。ワッチャネーム? って。そしたら『アイム・スパイク・リー』ときたからさあ大変。あの『マルコムX』を作った映画監督さんじゃないですか!」
そして、“サゲ”をつけた。
「最後、覚悟を決めて自己紹介です。アメリカの国民的な黒人のコメディアンの名前を拝借しました。アイム・ジャパニーズ・ビル・コスビーって。そしたらスパイク・リーさんは目を丸くして『ワォ!ワン・モア・ピクチャー、プリーズ!』ときた。これ、嘘のような本当のお話です」
結末の真偽は別として、かたことの英語交じりでくすぐりを利かせる展開には、クスッと笑ってしまった。
塞ぐ気持ちに光を灯してれたイチロー氏の球団殿堂入り
誰かがいみじくも言ったように、夢が生まれ、それを具体化し、実現する。そのようにして、旅を作ってきたヨネスケさんだが、実は、あきらめかけていた。「もう無理かな」。コロナ禍でうつ病と診断されたのは、満願まで6球場を残した2020年春のこと。
熟年離婚も経験し、孤独に潰されかけた。ところが、その年の秋だった。入り江の向こう岸に点滅する灯台の明かりのように苦悶する心をひとつのニュースが照らした――。マリナーズがイチロー氏の球団殿堂入りを発表したのである。
「彼がメジャーに挑戦してからこの行脚は揺るぎないものになっていったんですから。日本時代から親交があるしね。日課の散歩から帰ったあの日の気持ちは絶対に忘れません」
昨年8月27日、満員の観衆で埋まったマリナーズの本拠地T-モバイル・パークにイチローコールが沸き起こった。不世出の好打者は式典の最後を16分の英語スピーチで盛り上げた。ヨネスケさんは直立不動で記者席から熱視線を送っていた。
9月終わり。まだ時差ぼけと格闘中のヨネスケさんは落語会で宮崎県串間市にいた。電話の声は弾んでいた。
「イチローさんの米野球殿堂入りが残ってます。2025年の有資格1年目に選出されるのが濃厚ですからね。その式典を77歳の喜寿の祝いにしたいんです。それで本当におしまい!」
ゴルフもマージャンもパチンコもしない。「落語と野球を取ったら何も残らない」のがヨネスケさんの人生である。病に沈みかけた心を希望の淵に導いた紅葉の季節がまたやって来る。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)