球界を震撼させた「黒い霧事件」 八百長が生んだ悲しき凋落「なぜこんなに弱く…」

前身の西鉄からラインズ一筋でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】
前身の西鉄からラインズ一筋でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】

ライオンズ一筋18年…大田卓司氏のプロ1年目に「黒い霧事件」が起こる

 西鉄から西武まで、ライオンズ一筋18年。1983年日本シリーズでMVPに輝き、「必殺仕事人」の異名を取った大田卓司氏は大分・津久見高校で甲子園優勝を経験して西鉄に入団した。しかし、「花の1968年ドラフト」において9位という低評価を受けた。「絶対に見返してやる!」の気概でプロ生活に臨んだものの、球団は「黒い霧事件」の影響で弱体化。“身売り”を繰り返すなど、凋落の一途をたどるのである。

「黒い霧事件」とは、敗退行為につながる金銭の授受、いわゆる“八百長”への関与が疑われた西鉄の選手らに対して、永久出場停止(追放)などの厳しい処分が下されたものだ。1969年から1971年にかけて相次いで発覚し、球界のみならず社会に衝撃を与えた。

 大田氏が初めて事件について知ったのは、1969年8月頃だった。西鉄球団フロントが選手を集めて「八百長事件に関して警察の内偵が始まっている。君たちも交流関係にくれぐれも気をつけてほしい」と、注意喚起を促した。「プロ1年目。まだ18歳、19歳の私と、同期のトンビ(東尾修)は、内容が理解できず、『何の話だ?』と顔を見合わせましたね」。

 投手が故意に四球を与えたり、野手が故意に失策したりするのは想像できるが、投手が打者に故意に本塁打を打たせるということもあったらしい。打撃練習でもフェンス越えは難しいのに、そんなことが可能なのか。当時高卒ルーキーの大田氏の率直な感想は、こうだった。「不謹慎だし、今だからこそ言えるけど、そんな話を持ちかけられる選手は、よほど好選手なんだろう」。

 中西太兼任監督は「事件」の道義的責任から同年限りで辞任。稲尾和久監督に交代した。そして、1965年から1969年までプロ4年間で通算99勝を挙げたエース・池永正明に、1970年途中に永久追放処分が下された(2005年に処分解除され復権)。

セ・パ両リーグ首位打者の理論がわからず干され…反発心でオールスターに

 その後の球団は、1973年に太平洋クラブとなり、1975年江藤慎一兼任監督に交代。1976年鬼頭政一監督に交代。1977年クラウンライターに。1978年根本陸夫監督に交代……。プロ入り10年で実に最下位は5度、監督は5人交代した。監督が代われば目指すべき野球も違う。チームが強くなるわけはなかった。

「私は中学時代に大分県南大会で優勝、高校時代に甲子園で優勝した。西鉄もまた、私が物心ついた1956年(当時5歳)から1958年に3年連続日本一に輝いていた。愛する九州の西鉄が、なぜこんなに弱くなってしまったのだろう……」

 それでも大田氏は5人の監督のもとで、ゆっくりとだが、確実に実力を蓄えていった。「高2春の甲子園のテレビ中継で私の打撃を見て、中西さんは『こいつを獲れ!』と球団に推薦してくれたらしいんです」。“怪童”と大田氏とは、手首と膝の使い方が似ていたようだ。中西監督は長所を伸ばす教えだった。

「神様、仏様、稲尾様」と崇められた稲尾監督も、入団1年目までは現役。「監督としてはもちろん、人間として太っ腹だった」。遠征先で宿舎に閉じこもっていた大田氏と、同部屋の“兄貴分”竹之内雅史を飲みに連れ出し、「適当なところで帰れよ」と飲み代を渡してくれたこともあったという。

 江藤監督は、セ・パ両リーグで首位打者を獲得した打撃理論をミーティングで解説してくれた。しかし、「理論がわからず、正直に『できません』と答えたら、あろうことか干されてしまった」。鬼頭監督は、そんな大田氏を1976年開幕から起用。「江藤監督への反骨心で頑張った」このシーズン、23本塁打を放ち、初のオールスターに選ばれた。

 根本監督については、指揮官としてよりも「西武、ダイエー時代に“GM”として『素知らぬ顔で大トレードを画策していたタヌキ親父ぶり』が印象深い」と言う。(文中一部敬称略)

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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