球団身売り、覚悟の移住の九州男児 “貧乏生活”一変…初の贅沢に「これがプロ野球か」

西武でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】
西武でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】

ライオンズ一筋18年の大田卓司氏…尊敬する先輩の一言で移住を決意

 1983年の対巨人日本シリーズでMVPに輝き、「必殺仕事人」の異名を取った元西武の大田卓司氏。大分・津久見高から福岡に本拠地を置く西鉄に入団するも、プロ5年目の1973年に太平洋クラブ、1977年にクラウンライターと、“身売り”により球団名が変わった。そして、1978年10月に西武が買収し、遠く埼玉・所沢に移転することに。九州男児・大田氏の心境はいかばかりだったのか。

 所沢移転の西武ライオンズ誕生に伴い、「九州色一掃」とばかりに、太平洋・クラウン時代の主力選手だった竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴らは阪神に、基満男は大洋に、ことごとく移籍となった。しかし、大田氏は西武のリストに残った。

 1978年にクラウンの選手会長を務めた大田氏は、27歳と精神的にも技術的にも充実していた。西武以外のチームからの誘いもあった。正直な思いとして、大田氏は所沢に行きたくなかった。チームメートの9割が同じ心境だった。信頼するチームの先輩の土井正博に相談した。

「タク、どこでやっても野球に変わりはないんだぞ」。そうして、土井とともに大好きな九州、そして博多の街に別れを告げる覚悟を決めたのである。

「新生・西武」には、野村克也や山崎裕之がロッテから、田淵幸一が阪神からと、ビッグネームのベテランがたくさん移籍してきた。一方、アマチュア球界の大物だった森繁和(住友金属)をドラフト1位で指名し、松沼博久(東京ガス)・雅之(東洋大)兄弟も獲得した。強くなろうという西武の意思が球界内外に誇示された。球団発行の立派なファンブックやカレンダーも制作された。

 ファンブックやカレンダーに掲載される場所やスペースは、「球団内の選手の序列」を意味する。例えば「チームの顔」の選手は、カレンダーの1月(新年)や4月(開幕)に1人で掲載される。しかし大田氏はまた、「その他大勢」で扱われていた。ドラフト下位指名で“冷遇”された西鉄入団入団時の“負の感情”が、また沸々と湧き上がってきた。「絶対に見返してやる!」

春季キャンプの宿舎で11年目にして「プロ」を実感

 大田氏は新居を、西武ライオンズ球場(現ベルーナドーム)と、「飲みに行ける」歓楽街の池袋の中間点に構えた。西武1年目の1979年春は、1月に静岡県下田市で1次、2月にアメリカ・フロリダ州で2次キャンプを行った。

 1次キャンプの宿舎は下田プリンスホテルだ。そこで大田氏は驚いた。「ユニホームは洗濯してくれるのか」「食事はバイキングで、ステーキが出る。刺身もある」「これがプロ野球か」……。“貧乏球団”だった福岡時代から一転、プロ11年目にして初めて味わう贅沢な感覚だった。

 チーム成績は、クラウン時代から率いる根本陸夫監督のもと、1979年から最下位、4位、4位と変わらず低迷が続いた。大田氏にとって、Aクラスの経験は江藤慎一兼任監督時代の1975年(3位)1度だけ。他12年は全てBクラスだ。そして1981年10月、広岡達朗監督が就任するのである。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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