選手は禁酒なのに…監督室は瓶だらけ 宿舎抜け出し“がぶ飲み”「やってられねえよ」

西武でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】
西武でプレーした大田卓司氏【写真:高橋幸司】

ライオンズ一筋18年の大田卓司氏…13年目に広岡監督が就任

 西鉄・太平洋・クラウン・西武とライオンズ一筋18年、勝負強い打撃で活躍した大田卓司氏。身売りが続いた福岡時代は“貧乏球団”の悲哀を味わうも、埼玉・所沢移転で1979年に誕生した新生・西武ライオンズは、施設面、食事面ともに満足するものだった。そして、1981年10月に「管理野球」が代名詞の広岡達朗監督が就任。「必殺仕事人」の異名を取った大田氏は、1983年対巨人日本シリーズでMVPに輝くのである。

 広岡監督の管理野球というと、野球以前に「肉食禁止」「玄米推奨」「自然食品の摂取」「禁酒」「炭酸飲料禁止」「禁煙」「禁マージャン」の単語が思い浮かぶが、正確には、ベストコンディションを保つために「食事と睡眠で体調管理をする」ことをいう。例えば、怪我のときに完治が早まるように禁酒をするのだ。技量に勝るベテラン選手が、体調万全で試合に出場すれば、おのずと好結果が出て他チームに勝てる。理にかなっているのである。

 よって、広岡監督は禁酒を推奨した。しかし、酒好きの選手たちがそう簡単に我慢できるものでもない。キャンプの夕食で全員がそろって食事をしていると、「おっさん(田淵幸一)とトンビ(東尾修)がヤカンに冷やしたビールを入れておいて、湯呑茶碗でバレないように飲んでいた。私にも『お茶け』(おちゃけ=お酒)が回ってきましたよ(笑)」。

 一方の“管理側”はというと……。のちの1985年フロリダキャンプの際に、大田氏は広岡監督に用があって監督の部屋を訪ねたことがあった。すると、指揮官不在の室内には「ウイスキーの空き瓶がいくつも散らかっていたんです。やってられねえよ、って」。

 大田氏は、同部屋の秋山幸二と宿舎を抜け出し、近所のスーパーに買い出しに向かった。「私はビール2箱。幸二はコーラをたくさん仕入れました」。広岡監督は炭酸飲料のコーラも禁止していたが、2人とも思う存分、がぶ飲みした。ちなみに秋山はその年、前年4本塁打から40本塁打に大きく飛躍している。

キャンプの夕食に並べられた玄米食…指揮官は「30回噛め」

 話は戻って、広岡監督1年目の高知春季キャンプ。全員そろっての夕飯に出てきたものは玄米、網焼きの貝、サラダ、漬物……。当然ながら肉はない。選手はもう辟易とした。

 野球漬けになるキャンプでは食事が数少ない楽しみなのに、みんな食欲もわかず、ものの5分で食べ終わってしまう。しかも、玄米は消化がよくないため、毎朝トイレの奪い合いとなった。「だから『30回噛め』と広岡監督は言うのでしょうが、30回もなかなか噛めるものではないですよね」。

 さすがに選手たちは“改善”を要求。するとある日の昼食、カレーの入った寸胴鍋をかき混ぜていた選手が歓声を上げた。「おーい、肉が入ってるぞー!」「やったぜ!」。もう喜劇の世界だった。

 一方、こんなこともあった。遠征の宿舎の朝食バイキングで、大田氏はナスの入った味噌汁をお椀に入れていた。そこに広岡監督がやってきた。

「監督の分もよそいましょうか」「大田、実は俺はナスが苦手なんだよ……」

“普通の人間”であることを垣間見せた指揮官と、選手たちとの「せめぎ合い」。何とも興味深いエピソードの数々ではないか。広岡監督就任以来、4年間でリーグ優勝3度、日本一2度。ベストコンディションを保つ「管理野球」は、確かに効果てきめんだった。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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