「ガーンとやったら必ず使う」 激怒さえ計算ずく…選手を“その気”にする絶妙操縦術
正岡真二氏は星野政権でコーチ、2軍監督、スカウトなどを歴任した
元中日内野手の正岡真二氏(現・名古屋北リトルリーグ総監督)は、星野仙一氏の第1期中日監督時代(1987年~1991年)に1、2軍守備コーチ、第2期(1996年~2001年)には2軍監督、2軍コーチ、スカウトを務めた。3歳年上の星野氏とは現役時代からの付き合いだったが、監督時代の選手操縦術は見事だったという。現在では許されない鉄拳も含めて、闘将について語ってもらった。
3歳年上の星野氏は正岡氏にとって、兄貴分的存在だった。1969年、正岡氏のプロ2年目シーズンに星野氏は明大からドラフト1位で中日入り。ルーキーイヤーから先発ローテーション投手として8勝をマークした。その後は先発、リリーフのどちらもこなし、ドラゴンズのエースとなった。打倒・巨人を掲げ、マウンドでは常に闘争心をむきだしにした。そんな気迫満点の投球によって“燃える男”と呼ばれた。
正岡氏は「俺が入った頃の中日は下位の時が多かった。だけど、仙さんとかが入ってきて、どんどん上がっていった。いつもAクラスの位置にいるくらいになった」。それほど星野氏の影響力は大きかった。正岡氏が入団してからの中日の順位は最初の3年間が6位、4位、5位。それが2位、3位、3位と変わっていき、1974年は巨人のV10を阻止して優勝。その年、エースだった星野氏は15勝10敗10セーブで初代の最多セーブ、沢村賞にも輝いた。
通算146勝121敗34セーブの成績を残し、星野氏は1982年シーズン限りで現役引退。1983年4月3日、ナゴヤ球場での阪急とのオープン戦が引退試合となり、セレモニーでは「燃える男の名に恥じないよう全身全霊をマウンドに捧げて参りましたが、ここに燃え尽きました」と声を張り上げた。その“燃える男”が1986年オフ、中日監督に就任。今度は“闘将”と言われるようになったわけだが、正岡氏は「あの人は人を育てるのがうまかった。絶対そう」と断言した。
2軍から上がった選手は「絶対、すぐ使う」
「選手によって、いろいろ使い分けていたからね。この子は怒鳴ってもいい、怒鳴ったら駄目だとか、そういうふうに人を見ていた。言いたいことがあったら、誰かを怒ってわからせるようなこともしていた。ほんと、うまかったよ。それで使う時には、絶対に使い切るからね。あの人は中途半端にはやらない。下から上がった選手は絶対、すぐ使う。そういうところでのメリハリがものすごくあった」
鉄拳についても「それはあった」と言いながらも「でも、それだけじゃない。面倒見がよかったからね」。そして「それも人を見てやっていた。こいつはやってはいけないヤツというのもちゃんと知っていたよ」とも。いつの時代でも暴力は肯定されるものではない。当然、それがいいと言っているわけではない。ただし「あの頃は真剣に俺たちのことを思って怒ってくれているんやな、ということを思うわけや。だから怒られたら真剣にやる。だって使ってくれるからね」。
その時の感情、気分で星野氏が怒り狂っているだけではないことを、怒られている側も理解していたという。実際、当時の選手たちからは「(星野)監督に怒られなくなったら、逆に心配になった」との声が多く上がっていたが、正岡氏も「昔のヤツはそういうふうに言っていたよね。仙さんはガーンとやったら必ず使う。絶対使うもん」と説明した。
「怒ったらそれで。その場で終わっちゃうじゃない。仙さんは口でグチュグチュ言ったりはしなかった。その方が後に残るからね」。激しく怒ることも含めて、星野氏は常にいろいろ計算して動いていたともいわれる。正岡氏もそれを感じ取っていた1人だ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)