長嶋氏から「おいっ」 譲り受けた“1000万円”の宝物…想定外だった1年前の引退撤回
柴田勲氏が伝えられた「川上監督→長嶋監督」は1年先延ばしに
「我が巨人軍は永久に不滅です」。1974年10月14日。“ミスター”こと長嶋茂雄内野手の現役引退は、プロ野球の枠を越え、日本列島が涙した。日本で初めてスイッチヒッターとして通算2000安打を達成し、セ・リーグ最多579盗塁をマークするなど、外野手として巨人の9連覇に貢献した柴田勲氏は、引退セレモニーの直前に長嶋氏から使用していたグラブをプレゼントされた。「僕との約束を守ってくれたのです」。その経緯を聞いた。
長嶋氏は勝負強いバッティングのみならず、サードの華麗な守備でもファンを魅了した。柴田氏が頂戴したグラブは、1972年シーズンから引退まで試合で着用した最後の“相棒”。「NAGASHIMA」と背番号の「3」の文字が記されている。柴田氏は「関係者を通じて長嶋さんから許可をもらった上で」、テレビ東京の「開運! なんでも鑑定団」(今年2月放送)に出演し、鑑定士から1000万円との評価を受けた。
グラブを譲り受けたきっかけは、長嶋氏が引退する1年前のこと。1973年、激しい優勝争いが展開されていたペナントレース後半戦の地方遠征での宿舎。柴田氏は王貞治内野手(現ソフトバンク球団会長)と共に、川上哲治監督から呼ばれた。「僕と王さんと2人だけ。いったい何だろう」。部屋に入ると、衝撃の告白が待っていた。
「川上さんが『実は、俺は監督を辞める。優勝しても、しなくても関係なく』とおっしゃった。まだシーズン途中なので、びっくりしました」。さらに言葉は続いた。「『次は長嶋。長嶋からも了解を得ている。お前たちは生え抜きだから、長嶋が監督になった時には協力してやってくれ』。それで僕は、長嶋さんは今年で現役をやめるんだと思ったわけです」。川上氏が率いた連続日本一は前年までで「8」にまで伸びており、長嶋氏、王氏、柴田氏の3人はV1から主力メンバーを担った。
柴田氏は機会を見計らって、長嶋氏にお願いした。「もし、やめるのでしたら、ぜひ記念になる物が欲しいです。今使っているグラブをいただけませんか」。すると「『イヤ』とは、言われなかったですね。ただ、『うん』とも言われなかった。『わかった』だけでした」。その年、巨人は9連覇を達成。しかし、長嶋氏はシーズン終盤に負傷離脱するなど、やや不本意な成績だった。
隣の土井正三氏は「何でお前が」…あんなセレモニーは2度とできない
1973年オフ。柴田氏は川上氏からゴルフに誘われた。「その時に『来年も俺が監督をやることになった。長嶋がもう1年現役をやらせてほしいと言ってきたんだ』と伝えられました」。状況が変わっていた。「理由は僕らには全くわかりません。長嶋さんがこのままじゃ終われないと思ったのか。怪我が原因なのか。まだ野球がやりたかったのか。川上さんと長嶋さんとの話ですから」。
1974年の巨人は2位でV10は逸した。シーズン最終戦は本拠地、後楽園球場で中日とのダブルヘッダー。終了後に長嶋氏の引退セレモニーの運びとなっていた。長嶋氏は第1試合で通算444本目のアーチを左翼席へかけた。第2試合では「4番・三塁」に座り、センター前ヒット。柴田氏も満塁ホームランを放ち、“ミスター”のラストゲームを彩った。
セレモニーまでの間、柴田氏ら巨人の選手たちはロッカーで待機していた。主役の長嶋氏は準備等で大変だったはずだ。「それでも長嶋さんがツカツカと僕のところへやって来て『オイッ、柴田。約束の物だ』とグラブを渡していただいた。えっ、覚えていてくれたんだと感激でしたね」。長嶋氏の立教大の後輩、土井正三内野手が隣にいて「何でお前が。俺が欲しかったのに」と悔しがった。柴田氏は「僕は1年前に長嶋さんの引退を知っていた。先にツバをつけていましたからね」と冗談交じりに回想した。
柴田氏は法政二高(神奈川)で夏春連覇を成し遂げるなど甲子園のスターとして各球団が争奪戦を繰り広げる中、巨人を選んだ。「中学生の頃から長嶋さんのファンでしたから。巨人に入ったのも長嶋さんと一緒に野球ができると考えたからです。縁ですよね」。グラブは、その憧れの人の“分身”なのだ。
そして本拠地マウンド付近でスポットライトを浴びた長嶋氏から、あの伝説のスピーチが飛び出した。同じグラウンドで見つめていた柴田氏は述懐する。「みんな感無量でしたね。長嶋さんも泣いていたし、我々もファンも。ファンの声がよく聞こえました。『ナガシマーッ、やめるなー』とか。素晴らしい引退セレモニーでした。あんなセレモニーは、もう2度とできないのではないでしょうか」。