中学で陸上部も挫折、高校でも無名 故郷から「離れない」…殿堂入り左腕が選んだ軟式野球

広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】
広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】

大野豊氏は中学卒業後、就職を希望「母を手助けしたかった」

「我が選んだ道に悔いはなし」。1998年9月27日、広島市民球場での引退セレモニーで大野豊投手(現野球評論家)はこの言葉を力強く口にした。1977年3月に広島カープにドラフト外で入団した軟式野球出身のサウスポーは、先発も中継ぎも抑えもこなした。100勝100セーブを達成し、現役生活は22年。その間にはいくつもの岐路に立たされた。2013年に野球殿堂入りも果たしたレジェンド左腕の野球人生は出会いと学びの連続だった。

 1955年8月30日生まれ。島根県出雲市出身の大野氏は母・富士子さんに女手ひとつで育てられた。幼少時代は「よく浜辺で遊んだし、ビー玉とかメンコとか、けっこう手先でやるような遊びもしていましたね」。野球は三角ベース。「テニスボールで遊ぶという感じ。竹をバット代わりにしたりしてね。その後、ソフトボール、軟式って流れ。小学3年の時かな、母が軟式用のグラブを買ってくれた。それはうれしかったですね」。

 出雲市立第一中に入学すると陸上部に入った。「野球も好きだったけど、小学校の時、走るのが速かったんでね。でも1年生の新人戦の1500メートルで11人中9位くらいだったかな。もう出ばなをくじかれた感じ。自分のレベルはこんなものかって、挫折を味わいました」。すっかり自信を失い、練習も休みがちになった。「たまたま担任の先生が陸上部の監督で『何で出ないんだ』と言われ『このまま陸上をやっていく気持ちが……』と話した」という。

「そしたら先生が『わかった。でも何かしなさい』と言ってくれたので『野球をやらせてください』と言って、それで1年の2学期から野球部に入ったんです」。こうして大野氏は野球の道に進むことになった。「もし1500メートルで結果を出していたら、自分の先の道って変わったでしょうね」と話すように、これもひとつの人生の分かれ道だったのかもしれない。

 ただし、野球部でもこれといった成績を残せなかった。「ピッチャーと外野をやって、2年の秋になってエース番号をもらいました。球は速かったけど、コントロールに難があったので当時の監督は使いにくかったんじゃないですかね」。それでもいくつかの高校から誘われていたが、野球どうこうより、当初は高校進学も考えていなかった。「中学を卒業したら、とにかく自立したかったんです。就職するつもりでした」。

 理由はひとつだった。「母を少しでも手助けしたかった。楽をさせてあげたかった。自分が働いて給料をもらえれば、母の負担も減るじゃないですか。そういう思いが非常にあったんです。母は生活が苦しい状況の中、僕のために頑張ってくれていたんでね」。だが、反対された。「母や親戚の人たちに『今の時代、高校は行った方がいい、お金は心配しなくていい』と言われて……。それで先々の就職を考えて出雲商に行くことにしたんです」。

出雲商を卒業後、出雲市信用組合に就職…軟式野球を選んだ

 高校では1年(1971年)夏からベンチ入りしたが「投げることはなかった。代打で出るとかその程度だった」。当時の出雲商の3年生のレベルは高かったという。「その年は3年計画で甲子園を目指した3年目だったんです。3年生たちの体は凄いし、力もあるし、とてもじゃないけど、この人たちに入ってレギュラーを取るとか、ピッチャーとして投げるなんて全く考えられませんでした」。その3年生たちでも甲子園切符はつかめなかった。

 大野氏は2年(1972年)秋から主将で背番号「1」を着けたが、2年秋は島根大会準々決勝で大田に0-5で敗戦。3年(1973年)夏は1回戦で安来に2-3で敗れた。聖地は遠かった。「中学もそうでしたけど、高校時代もいい思い出はほとんどないです。毎日走って、投げ込んで、よく頑張ったなというような感覚しかないです」。速球派左腕として知られた存在ではあったが、プロを目指すなんて考えは全くなかった。

「ロッテの濃人(渉)さん(元ロッテ監督で当時はスカウト)が来られていたのは後で聞きました。だけど、当時の監督がプロなんかでとてもやれる素材じゃないからということで断ったそうです」。それにも異論はなかった。「その代わり、当時の監督は『社会人でやってみたらどうだ』と言われて三菱重工三原に体験で行きました。三原では僕らの先輩がマネジャーをやられていたんです」。しかし、大野氏は正直、そこにも行く気はなかったという。

「自分としては出雲から離れない、出ないというのがありましたからね」。苦労をかけた母と一緒に暮らすことを第一に考えた。「でも島根には硬式野球部があるところがなかったんです。気持ちのなかでは野球はやりたい。だけどやっぱり家から離れたくないというこだわりがあったなか、(軟式の)出雲市信用組合から『ウチへこないか』って話があったんです」。考えた末にそこへの就職を決めた。出雲市信用組合は島根県下では軟式野球の強豪だった。大野氏はそこで野球を続けた。

 背番号は「28」を選んだ。「巨人の王さんや長嶋さんを真っ向勝負で抑える凄い左ピッチャー、阪神の江夏さんに憧れていたんです。だから28にしました。キャッチャーは田淵さんの22番。江夏、田淵のバッテリーだって思い込んで投げていましたね」。この時は夢にも思っていなかった。自分がプロに入ることになるなんて、ましてや野球人生に大きく影響を与える江夏氏との出会いがこの数年後にあるなんて……。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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