プロ入り熱望も「パ・リーグはちょっと嫌」 軟式から大エースへ…本心でこじ開けた扉

広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】
広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】

大野豊氏は出雲市信用組合の3年目、硬球で5回13Kの衝撃投球

 運命に導かれるようだった。広島OB会長で野球評論家の大野豊氏は、21歳だった1977年2月に広島カープのテストを受けて合格。同年3月にドラフト外で入団となった。軟式の出雲市信用組合出身。当初はプロ野球選手になるなんて考えてもいなかったが、社会人3年目(1976年)の秋頃に突然、流れが変わった。一気に新たな道をこじ開けて、飛び込んだ。そこへ行き着くまでには、いくつもの出来事が重なった。

 出雲商から軟式野球部がある出雲市信用組合へ進んだ。高校時代は大きな結果こそ残せなかったが、速球派左腕として知られた存在。だが、母子家庭で苦労をかけた母・富士子さんと一緒に暮らせることを優先して、地元への就職を選択した。「硬式から軟式。ボールの重さとかもろもろあって、投げられるようになるまでちょっと時間がかかりましたけどね。逆に軟式の奥の深さも知りましたね」。

 ただし、野球よりまず仕事。入社後、研修を経て本店営業部渉外課に配属された。「いろんな店や個人の家にも伺って集金するとか、預金を頂くとか取引先回りもやりました。いろんな方と会って、話を聞いたりしながら、自分の感覚が変わってきましたね。強くなったというかね。弱かったらこの仕事はできない。引っ込み思案じゃいけない、ダメ元でも積極的に行くしかないですからね。自分にとっていい方向に変わったなとは思いますね」。

 そんな業務をすべて完了しないと野球の練習はできなかった。「お金を扱う仕事ですから、集計があって初めて本支店の野球部が集合するんです」。出雲市信用組合に専用グラウンドはなく、空き地などでの練習だったが、とても楽しかったそうだ。「ナイターはできないので日が暮れるまで。限られた時間しか練習できないので、キャッチボールして、トスして、バッティングして、走って投げてというのをどんどんやらないといけなかったですけどね」。

 何よりチームが強かったのが大きい。「全国大会も行きましたし、国体もね。全国レベルではどうかとなりますけど、島根県下ではほぼ負けなかった。勝つ喜びというかね、やっぱり負けたら面白くないじゃないですか。勝てるというのは、非常に楽しいんですよ。それを味わえたのは社会人で軟式をやってからですよね」。巨人の王貞治内野手、長嶋茂雄内野手を真っ向勝負で抑え込んだ阪神・江夏豊投手に憧れて背番号28をつけた左腕・大野投手は確実に成長していた。

 状況は社会人3年目の1976年秋から激変していく。中国大会を控えた出雲高校と練習試合をすることになり、久しぶりに硬式球を握った。「野球部の先輩が出雲高卒業だったので試合が組まれたんですが、硬式なんて3年も投げていませんから、まぁ練習相手になればいいやって思って投げたんですけどね」。超抜群の結果が出た。「5回を投げて13奪三振。ヒットは1本打たれたかな。投げれば三振で、これははまりましたねぇ」。

恩師に嘆願し広島入団テストを受けて合格

 同時に芽生えたのがプロへの思いだ。高校時代に投げ合った島根・平田高出身で1学年下の青雲光夫投手が阪神の入団テストに合格したことにも刺激を受けた。さらに出雲市での野球教室に広島・山本一義コーチと池谷公二郎投手が訪れ、出雲市信用組合野球部が手伝いをした縁で一緒に食事するなどプロに初めて“触れた”ことで、その気持ちは高まった。「急に、いろんな出来事とか出会いが重なって、プロでやるのであれば今しかないかなと思った」という。

 ここから大野氏の行動は実に積極的だった。出雲商1年時の監督だった谷本武則氏に相談した。「ここでプロに挑戦しないと後悔するんじゃないかという気持ちが出てきたのでね。谷本さんは法大で山本一義さんの先輩。そういうつながりのある方だったので、何とかなりませんかとお願いしたんです」。恩師は快く協力してくれた。「南海にも知り合いの人がおられたそうで、連絡をとってくれて、そういう選手がいるのなら見ますから来てくださいってなったんですよ」。

 だが、これに大野氏は首を縦に振らなかった。一番行きたかったのは島根からも近い広島カープだったからだ。「自分でお願いしながら、こんなことを言っていいのかなと思ったけど『いや、パ・リーグはちょっと嫌です、セ・リーグでお願いします』って言いました」。すると「巨人がいいかとか、阪神がいいかといろいろ言われた」という。そこで、ついに「できたらカープでお願いします」と本心を伝えたそうだ。

「結局、谷本さんから山本一義さんに連絡していただいて、2月にそういう時間を設けるから来てくれとなった」。テストの場所は当時2軍キャンプ地だった呉市の呉二河球場だった。テストに向けて毎日、早朝に斐伊川の土手を走った。母校の出雲一中のグラウンドで遠投し、傾斜のある相撲の土俵をマウンド代わりにして投球練習をしたという。「今から思えば、よく自分で思い切って決断したというか、そういう気持ちになったと思いますよ」。

 勢いづいていた。「母には偉そうに『プロに受かって、プロで成功して広島に呼ぶから、許してほしい』と言いました。『自分がそう思うのであれば、頑張って行っておいで』って送り出してくれました」。結果、合格した。「テストといっても一緒に練習してピッチングしてという感じだったんですけどね。左でちょっといいカーブを投げていたからですかねぇ……」と振り返るが、チャンスを見事にモノにしたのは、実力なしではできなかったことだろう。

 もちろん、要望を考慮し、間に入ってくれた谷本氏のバックアップがなかったら実現不可能だっただけに、大野氏はとても感謝している。その上で、こう付け加えた。「自分の思いを伝えて、現実にテストを受けさせていただいて、カープに入団できた。カープに入れたから今があるわけですから、あの時、自分が決めた道というか、選んだことは間違いじゃなかったと思いますね」。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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