絶望の防御率135.00で謝罪「もう出たくない」 涙を流しながら歩いた“失意の帰り道”

広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】
広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】

大野豊氏は1977年3月にドラフト外で広島入団…1年目は1登板で防御率135.00だった

 衝撃的なデビューだった。元広島投手の大野豊氏(野球評論家、広島OB会長)はプロ1年目の1977年9月4日の阪神戦(広島)で初登板を果たした。2-12の8回に4番手で投げたが、結果は1アウトしか取れず5失点KO。打者8人に5安打、2四球、満塁アーチも浴びる散々な内容だった。この年は、この1試合の登板で終わり、防御率は135.00。2013年に野球殿堂入りしたレジェンド左腕のプロ人生は大屈辱からスタートした。

 1977年2月、軟式の出雲市信用組合の左腕投手だった大野氏は当時の広島2軍キャンプ地、呉市の呉二河球場で入団テストを受けた。出雲商時代の恩師・谷本武則氏が法大時代の後輩である広島・山本一義コーチに連絡をとってくれて実現し、合格した。

「会社の常務が野球部監督でテスト前に辞表を持っていきました。でも『プロなんか簡単に受かるもんじゃないよ。1週間、旅行に行くとか理由付けして休暇をとって行って来い、辞表は預かっておくから、落ちたら何食わぬ顔して戻ってこい、破って捨てれば済むことだから』って。それでテストを受けに行ったんですけどね」

 テストを受けることを知っていたのは数人だけ。「運良く受かって、みんなびっくりしていましたけど、もうこうなったらやるしかないという気持ちになりました」。気になるのは、女手ひとつで育ててくれた母・富士子さんのことだったが「自分のことは心配しないでいいからって言ってくれて、よし頑張ってこようと思いましたね」。テストを受ける前には「必ず合格してプロで成功して広島に呼ぶから」と伝えており、それを絶対実現させると改めて誓った。

「母は僕の支えであり、自分のやらなければいけない気持ち、ものから逃げないという気持ちを作り上げてくれた存在だった。そういう意味では僕を強くしてくれた存在でもあったんですよ」と大野氏は話す。実際にプロで結果を出し、のちには広島に母を呼ぶこともできたわけだが、そのプロ人生のスタートは厳しいものだった。「キャンプも何もやらずに3月に入団して、5月には2軍で投げ出して3勝して、8月に1軍に呼ばれたんですけどね……」。

 ちょっと前まで軟式の投手が硬式で、しかもプロで、キャンプでの体作りもなしに、いきなり2軍で勝っていただけでも十二分に凄いことだったと言っていい。ましてや入団後、半年も経たないうちに1軍にも昇格した。しかしながら、デビューは……。「8月に1軍に上がったけど1か月間、全く登板がなかった。その間、1軍にいながら2軍で投げたりしていた」。そんななかで、ついに出番がやってきた9月4日の阪神戦。待ち受けていたのは悲惨な結果だった。

電話した母から「1回の失敗で諦めたら駄目。もう1回頑張りなさい」と激励

 試合は7回に広島投手陣が大炎上の1イニング11失点。大野氏の初登板はその次の回、2-12で迎えた8回、役割は敗戦処理だった。「たまたま、その日、出雲から僕の後援会の方々がバス2台くらいで応援に来ていたんです。それを古葉監督が知って僕を投げさせてくれたんだと思います」。それに応えられなかった。先頭の島野育夫外野手にセンター前ヒットを許した後、掛布雅之内野手をショートフライに打ち取ったが、アウトにしたのはそれだけだった。

 そこから連打で1点を失い、さらに安打を浴びて塁が埋まり、7番打者の片岡新之介捕手に満塁弾を浴びた。続く中村勝広内野手に四球、山本和行投手にも四球を与えたところで、降板となった。「投げるボールすべてカンカン打たれて、もうどうしようもない感じだった。ホームランを打たれてからは真っ白ですよ。ボールもテンションもガクンと落ちっぱなしで……」。当然のように2軍落ちも決まった。

 スタンドでは後援会が「翔け 大野豊」の横断幕を掲げていたが「僕が打たれるたびに、それがどんどん下がっていって、最終的にはペチャっと隠してしまったということでした……」。試合後、後援会の方々のところに行き「申し訳ありませんでした。すみませんでした」と頭を下げた。ショックは大きかった。「この先どうしようかと思った。もうグラウンドに出たくないくらいの気持ちだった」。球場から約3キロの三篠寮までは、泣きながら歩いて帰ったという。

「寮に戻って(入団テスト時から)お世話になっている山本一義さんに電話して、いろんな励ましの言葉をいただきました。母にも電話しました。弱音を口にしたら『1回の失敗で諦めたら駄目。もう1回頑張りなさい』って。すぐには受け入れられなかったけど、まぁ、その通りだなと思いましたね」。親身になって心配してくれた山本氏と母のおかげで、気持ちは徐々に切り替わっていった。

「キャンプもやってないのに1軍に呼ばれたってことは何かいいものがあるってことだろう。技術、メンタル、体力、もう1回、しっかりやればまたチャンスはあるのではないか、というような前向きな気持ちになった。恥をさらしたからと、ここで自分が諦めていたら何のためにプロに入ったんだ。プロで成功して母親を呼びたいと言ったことも嘘になってしまうじゃないか。もう一度頑張ろうってね」

 大野氏のプロ1年目の成績は1登板、0勝0敗、防御率135.00。これ以上悪くなることはないと考えた。「僕は135点から始まった男ですからね」。屈辱の初登板をバネにした。レジェンド左腕の原点。それこそ、これがあったから、次があった、その後があった、と言ってもいいのかもしれない。

【写真】67歳とは思えない…現役時代と変わらぬフォームで快速球を投じる大野氏

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