調査書ゼロから「奇跡です」 1人で待った指名…西武ドラ7糸川亮太をプロに導いた“魔球”

西武から7位指名を受けたENEOS・糸川亮太(左)と西武球団本部編成グループディレクター・潮崎哲也氏【写真:町田利衣】
西武から7位指名を受けたENEOS・糸川亮太(左)と西武球団本部編成グループディレクター・潮崎哲也氏【写真:町田利衣】

ENEOS糸川は指名に「鳥肌が立ちました。時間が経って泣けてくるところも」

 ENEOSの糸川亮太投手は、10月26日に行われたドラフト会議で西武から7位指名を受けた。実は12球団からの調査書はなく、大久保秀昭監督も「指名はビッグサプライズ!」と話したほど。「奇跡です」とはにかんだ糸川をプロに導いたのは、くしくも長く西武で活躍した潮崎哲也氏(現球団本部編成グループディレクター)の存在だった。

 同僚の度会隆輝外野手が早々に名前を呼ばれ、3球団競合の末にDeNA入り。そこからは長い時間だった。糸川も寮の食堂で中継を見ていたが「気持ち的にいられなくなって……」と部屋に戻り、1人スマートフォンの画面を見つめていた。待ちに待って出た自らの名前。部屋を飛び出すと、吉報を知った仲間たちが食堂からダッシュで駆けつけてきた。「鳥肌が立ちました。少し時間が経って泣けてくるところもありました」と喜びをかみしめた。

「率直な感想としては、凄くビックリしました」というのが本音だろう。各球団が興味のある選手に送る調査書は来ていない。「(大久保)監督がスカウトの方と色々コミュニケーションを取っていて、西武があるかもしれないみたいには聞いていたんですが……」。しかしその西武は1位から5位まで投手の指名。「ほぼほぼダメだろうな」と諦めかけていたところに届いた吉報だった。

 2人の兄の背中を追うように、自然と野球を始めた糸川。プロの目に留まる武器となったのは、シンカーだ。川之江高時代、同じ愛媛県の松山聖陵高にいたアドゥワ誠投手(現広島)と同学年で仲が良く、チェンジアップの投げ方を教わったのが始まり。チェンジアップ習得に励み、立正大1年時に「もう少し強く投げてみよう」とシンカーを投げ始めた。

西武から7位指名を受けたENEOS・糸川亮太【写真:町田利衣】
西武から7位指名を受けたENEOS・糸川亮太【写真:町田利衣】

シンカーの使い手だった潮崎哲也氏から助言「すぐにハマりました」

 その後はYouTubeでシンカーの使い手でもあった潮崎氏の投球映像を見るなど研究を重ね、磨きをかけてきた。すると今春の日本通運とのオープン戦で転機が訪れた。たまたま訪れていた潮崎氏から、直接アドバイスをもらう機会を得た。「握り方や離すときのイメージを教えていただきました。握り方は一緒だったので、比較的やりやすかったというかすぐにハマりました」とさらなる成長のキッカケとなった。

 1989年ドラフト1位で西武入りし、2004年までチーム一筋で過ごした憧れの人と同じ、ライオンズブルーのユニホームに袖を通す。これもきっと何かの縁だろう。中継ぎの即戦力として期待される25歳は「任されたところでチームの力になりたい。1年目で1軍完走できればうれしいです」と目標を掲げた。

 立正大時はプロ志望届は出さなかった。「(プロに)めちゃくちゃ行きたい気持ちはあった」というものの「今の自分が行って活躍できるか考えたときにどうかなと思った」と冷静に自分を見つめ、社会人の道を選んだ。回り道ではなかったことを証明するためにも、ルーキーイヤーから結果を残すことが第一だ。

 大久保監督は糸川について「負けず嫌いというか、ハートで投げるタイプ。打者にグイグイ向かっていける。自分を追い込んでいける選手なので、チームに入ってもいい影響を与えてくれるような選手ではあると感じています」と評する。指名あいさつの際に再会を果たした潮崎氏も「(シンカーは)プロに入っても空振りが取れる」と太鼓判。指名順位は関係ない。遅咲きの右腕が、今季5位に終わった西武を押し上げていく。

○著者プロフィール
町田利衣(まちだ・りえ)
東京都生まれ。慶大を卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2011年から北海道総局で日本ハムを担当。2014年から東京本社スポーツ部でヤクルト、ロッテ、DeNAなどを担当。2021年10月からFull-Count編集部に所属。

(町田利衣 / Rie Machida)

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