「嫌いだったんですよ、巨人が」中学生で乱闘騒動…無気力で受けた“入団テスト”
元中日の今中慎二氏は右利き…左用グラブを貰って左投げに転じた
「今後、こういうピッチャーは出てこないんじゃないか」。彼が2001年に引退した時、闘将・星野仙一氏はそう話した。細身の体ながらしなやかな腕の振り、同じフォームから繰り出される150キロ近いストレートに100キロ前後のカーブ、さらには80キロ台の超スローカーブ……。驚異の60キロ差の緩急自在の投球で打者を翻弄し、中日のエースとして活躍した今中慎二氏(野球評論家)。“不世出”の左腕の野球人生は左用のグラブとの“出会い”から始まった。
大阪府門真市出身の今中氏は小学3年の時に地元の少年野球チームに入った。その時は既に左投げだったが、それまでの遊びの時代はずっと右投げだった。グラブも右用を持っていて、それを使っていた。「だって右利きですからね。字を書くのも、箸を持つのも右。もちろん、それは今もですよ。野球以外は全部右です」。野球だけ左投げになったのは3つ違いの兄が少年野球に入ったのがきっかけだった。
「兄貴が『グラブがない』って言って、ボロいやつだったんですけど、俺のを持っていったんですよ。そしたら近所のおばちゃんが、俺に『グラブがあるよ』って。その時にもらったのが左用のグラブだったんです」。左投げに違和感はなかったという。「ドッジボールも右でも左でも投げていたしね、それで左投げになった。壁当ても左でやっていたのは覚えている」。これも運命だったのだろう。左用のグラブを手にしてなければ右投げのままだったはずだ。
「少年野球も入りたくて入ったわけではないんです。兄貴が入っていたので、チームの人に“お前も来い”みたいにいわれて……。左投げだったからすぐピッチャーをやらされて、3年の時には、もう兄貴と一緒に試合にも出ていました。6年ばかりの中で、レギュラーではなかったけど、ピッチャーとか外野でちょこちょこね」。兄が少年野球に入っていなかったら、これもどうなっていたかわからない。それこそ右投げだったら……。
1983年、中学では門真シニアに入団した。「最初は違うところに入ったんだけど、門真につくるってことになって、中1の途中からね。でもね、練習場を持っていなかったし、俺の頃は借りたりできる場所もなかった。軟式はいいけど硬式は駄目ですってところばかり。河川敷にグラウンドがあってそこは軟式しかできないんだけど、勝手にやって見回りのおじさんが来たらやめてとか、決まった練習ができなかった」と苦笑しながら、振り返った。
これといった実績も残していないという。「まともな練習をしていないし、弱かった。ピッチャーだったけど、コールド負けばかり。3年(1985年)になってから大会で1回勝ったかな。いろんな県のチームとやる大会があって、最後は名古屋のチームに負けたと思う。その時、デッドボールで乱闘になりそうになったんだよね。血の気の多いヤツがぶつけられて怒ってもめて……」。その頃はプロ野球選手になるなんて思ってもいなかったそうだ。
「そんなんでいいのか」やる気なかったセレクションに“まさか”の合格
「全く考えてなかった。プロ野球に興味がなかった。野球中継もあまり見てなかったね。見てもサンテレビで阪神戦。あの頃は毎日のように巨人戦をやっていたけど、それはまったく見なかった。嫌いだったんですよ、巨人が。巨人戦をやると見たいテレビ番組が見れなくなるから。親父が見るもんでね。雨で中止になれって思っていましたね」
高校は地元の公立高校・門真西に進みたいと思っていた。「野球も強かったんですよ。大阪大会で4回戦とか5回戦とかまでいっていたから。それでみんなで行こうかって言っていたんです」。だが、それは実現しなかった。進学先は大産大付大東校舎(現大阪桐蔭)。「俺は行く気は全くなかったんですけどね。親に産大のセレクションに行かされたんですよ」。
摂津シニアの事務局の人からの誘いがきっかけだったという。「摂津シニアは宮本慎也(元ヤクルト)がいたチームで、ウチ(門真シニア)はよく練習試合していつも負けていたけど、その事務局の人とウチの親は仲がよかった。その摂津シニアから産大に行く選手がいて、俺も産大のセレクションを受けに行かないかって話が父か監督のところに来て、受けに行くことになってしまったんです」。
気乗りせずのセレクション。「適当にやっていました。遠投も適当に投げて80何メートルくらいしか投げていない。みんな120とか投げているなかでね。『お前、そんなんでいいのか』って言われて『いいです、これで』って。そんな感じでやっていましたね」。昼食時に大産大付・山本泰監督から「お前、ウチに来る気あるのか」と聞かれた時も素直に「いいえ」と答えてしまったそうだ。「周りから『おい!』って言われましたけどね」。その結果がびっくりの合格だった。
山本監督は南海の名監督だった鶴岡一人氏の長男。大産大付の前にはPL学園の監督を務め、1978年夏の甲子園では西田真二(当時は真次)投手(元広島)、木戸克彦捕手(元阪神)らを擁して初の全国制覇。「逆転のPL」と称された。「監督は左ピッチャーが好きだったんですよ。(PLのエースだった)西田さんとか西川(佳明=元南海、阪神)さんとか……。俺も左だったから入ったんじゃないかって感じでした」と今中氏は言う。となればこれも右だったら……。
今中氏は1988年ドラフト会議で中日に1位指名されてプロ入りするが、この時は、もちろん、そんなことを想像できるような状況ではなかった。右利きなのに左用のグラブをもらって、左投げになったのが、いろんな意味でも野球人生に大きく関わったと言っていい。稀代のサウスポーはこうして大産大付に入学。ここからさらに鍛えられて、成長していくことになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)