立浪和義に思わず「あれはアウトです」 震えた疑惑の判定…幻になりかけた最強軍団

元中日・今中慎二氏【写真:山口真司】
元中日・今中慎二氏【写真:山口真司】

今中慎二氏は大産大付大東校舎で1年夏からベンチ入り

 注目を集めたのはPL学園戦だった。元中日投手で野球評論家の今中慎二氏は1986年、大産大付大東校舎(現大阪桐蔭)に入学後、1年夏には背番号「17」でベンチ入り。プロスカウトの目に留まったのは1年秋の大阪大会準々決勝だった。1学年上の立浪和義内野手、野村弘樹(当時は弘)投手らを擁した超強豪を相手に好投。0-1で惜敗したが「産大の今中」は強烈なインパクトを与えた。しかも「本当はあの1点もなかったんですよ」。当時を振り返ってもらった。

 今中氏世代の大産大付のメンバーは逸材揃いだったという。「中学のボーイズとかシニアとかトップクラスの連中が集まっていた。のちのち聞いたけど(山本泰)監督がどうしても甲子園に行きたいと思って、中学のいいのを野手もピッチャーも全部取ったそうなんですよ」。一方、今中氏は門真シニア時代に実績なしで「左投手だから取ってくれたと思う」という状況。同級生を見ながら「スゲーな」と思うばかりだったそうだ。

 そんな中で1年夏からメンバー入りを果たしたのだが「みんな怪我したんですよ。ことごとくスーパースターたちが肩が痛いとか、肘が痛いとか、疲労骨折するヤツも多かった」。逆に今中氏は1年の5月に練習試合デビューとなった。2学年上の野茂英雄投手がエースの成城工戦だった。「俺はリリーフで投げた。野茂さんは有名で先輩が『こいつすごいんやぞ』って言ってましたね。で、見たら本当にウワー、凄いボールを投げるなって思いましたよ。試合は勝ったんですけどね」。

 大産大付の練習はハードだった。1年生の有力選手に怪我人が続出したのは、それもあったようだが、今中氏の場合は「付いたのがいい先輩でした」と話す。「同じ左ピッチャーで、キャッチボールから何から何まで一緒。よく監督に怒られていた2つ上の先輩なんですが、その人に付いていると練習をサボらせてくれたというか、何でも要領よくやらせてくれたんですよ」。おかげで、すべて全力でやらなくて済んだため、怪我などの“パンク”を回避できたというわけだ。

 ちなみにその先輩は東北福祉大に進学して野球部でも活躍した安武宏倫氏。元五輪メダリストの岡崎朋美さんの夫で「結婚すると聞いた時はびっくりしましたけどね。富士急のホテルでの結婚式にも行きました」と今中氏は笑顔で明かす。「あの時、付いたのが安武さんじゃなかったら俺は変わっていたかもしれませんね」。高校1年時にお世話になった安武氏は今中氏にとって恩人の一人といえそうだ。

 そんな“サポート”を受けながら今中氏はチームで頭角を現していった。背番号17でベンチ入りした夏の大阪大会は「1回戦と2回戦はリリーフで投げたと思う。3回戦以降はさすがに投げていませんけどね」。3回戦は先輩の安武が投げて上宮に3-1で逆転勝ちし、4回戦はPL学園に1-4で敗れた。そして、新チームで今中氏は「エース番号はもらってません。ウチは下級生ではもらえないですから」というが、主戦で投げるようになった。

1987年に春夏全国制覇のPL学園…前年秋の大阪大会で今中氏は好投

 選抜出場を目指して、1年秋の大阪大会準々決勝で激突したのが、立浪氏らが主力のPL学園だった。「あの時のPLは確か勝ち上がり方がコールド、接戦、コールド、接戦みたいな感じ。俺らとの試合前は接戦だったのかな。やばいな、コールドだなって言っていた記憶がある。初回、いきなりヒットを打たれて、ホントにコールドかって思ったけど、2番の送りバントが小フライ、それをショートバウンドでとってダブルプレーにして乗っていけた」。

 試合は5回に今中氏が1点を失い、大産大付打線は野村に沈黙して0-1での敗戦。しかしながら、立浪を無安打に抑えるなど強力打線を1点に封じ込めた今中氏は一躍、プロ注目の投手になった。もっとも、この試合について今中氏はこんなことも言う。「取られた1点も本当はなかったんですよ。ホームでクロスプレーになったんだけど、バックアップで俺、見てましたから。(走者が)ホームを踏んでいないのを」。

 審判が「セーフ」と判定した時、今中氏は思わず「えーっ」と声を上げたという。「そしたら、めちゃめちゃ審判に怒られましたけどね。あれがアウトになっていたら、どうなっていたでしょうね。でもウチは野村さんを打てなかったですからねぇ……」。PL学園は翌1987年、春夏甲子園連覇を成し遂げた。もしも、その試合で大産大付に負けていたら、当然、それはできなかったわけだが……。

 大産大付は1987年春季大阪大会準決勝でPL学園と再戦したが、5-7で敗れた。「春は甲子園に関係ないし、監督に『打たれてもいいから真っ直ぐだけ投げておけ』って言われて、ガンガン打たれたけど、選抜に優勝したPLは秋とは別のチームになっていましたね。オーラがあった。真っ直ぐだけじゃなくてもやられていたと思います」。“本番”の夏は準々決勝で桜宮に1-5で敗れて、PLと戦うことなく終わった。

「桜宮に勝ったらPLで、俺はそこで投げろって言われていた。桜宮戦に俺は先発してなくて、点を取られてから投げたけど、もう手遅れだった。PLに1個手前での負け。それもウチらしいですけどね」。今中氏はプロ入り後、中日で同僚となった立浪に1986年秋の0-1の試合について「あれはアウトですよ」と話したそうだ。「立浪さんは『そうか』って言っていましたけどね。あの頃、ウチの学校のことはかなり警戒していたらしいです」。

 1年秋のPL戦の好投から、大産大付の今中投手は知る人ぞ知る選手になった。「プロのスカウトが来ているとか、そういう情報は一切入ってきませんでしたけどね」と話すが、1学年上の立浪氏らの存在もまた、今中氏をさらなるレベルアップに導いてもいたのだろう。ただし、この時点でもまだプロは意識していなかったそうだが……。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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