完封したのに指揮官ブチギレ 「なんでそんなに怒る」嬉しかったコーチの“猛反論”

元中日・今中慎二氏【写真:山口真司】
元中日・今中慎二氏【写真:山口真司】

落合博満からの助言で今中慎二氏はふくらはぎに必ずテーピングをした

 プロ3年目も2桁勝利をマークした。元中日エースで野球評論家の今中慎二氏は1991年に36登板、12勝13敗、防御率2.52の成績を残した。前年成績(10勝6敗1セーブ、防御率3.86)から黒星は増えてしまったが、それ以外は前進。8完投、4完封、2無四球も前年をすべて超えた。この年の途中から、今中氏はふくらはぎにテーピングをしてマウンドに上がっていた。「それで安心できた」。“オレ流3冠男”からのアドバイスでそうするようになったという。

 きっかけは1991年6月18日の大洋戦(ナゴヤ球場)で右ふくらはぎを痛めて降板したことだった。延長10回に中日・彦野利勝外野手がサヨナラ本塁打を放ったものの、一塁ベースを回ったところで転倒(右膝靱帯断裂の大怪我)して走塁できず、代走・山口幸司外野手が出た試合。その前に先発の今中氏も負傷していた。「打席で足がピクッとなってやばいなって思いながらマウンドに上がったら、何か仕草に出ていたのか、バント攻撃をされて……」。

 軽い肉離れで離脱。今中氏は「大阪に針治療でいいところがあるから行ってこいと言われて行きました。普通の家みたいなところだったんですが、そこに3日間泊まって、朝から夕方までずっと寝っぱなし。ご飯は出前をとって寝ながら食べました」。それがよかったのか、復帰は早かった。1軍に戻った時、トレーナー室で落合博満内野手と遭遇したという。

“オレ流”はテーピングをしていた。「落合さんもその年、肉離れで離脱した時期があったんですよ。それで俺に『お前も一緒だから、これやれ』みたいに言われて、同じようにテーピングするようになった。落合さんは毎試合だけど、俺は投げる時だけ。これは現役を終わるまで続けました。先発の時は5、6回になると足がピクピクするから、テーピングしないと安心できなかった」。おかげで力を発揮できた。この習慣も今中氏の成績アップにつながったようだ。

今中慎二氏は1991年にダブルヘッダー第1試合で完投、第2試合も先発した

 この年に1軍投手コーチに就任した佐藤道郎氏にもお世話になったという。「岐阜であったカープ戦(1991年5月22日)に8-0で完封したんだけど、星野(仙一)監督にめちゃくちゃ怒られた。(広島の)山崎隆造さんによく打たれていて、その日も2安打されて……」。厳しいコースに投げろと言われながら、投げ切れなかったのも原因だった。「それを道さんがかばってくれたんです。『なんで完封して、そんなに怒るんですか』って」。

 今中氏は「道さんはいろいろと味方してくれたんですよ。監督とやり合うこともあったしね」と明かす。「俺が寮を出たいという話をしたら、道さんは、俺が10勝したタイミングで監督にアポをとってくれて、初めて監督とちゃんとした会話もできた。それまでは『はい』か『いいえ』というだけで会話じゃなかったですから。寮を出るのは却下されて、失敗したんですけどね」。佐藤氏のおかげで、それも思い出の一コマになっている。

 1991年の中日は8月を終えた時点で2位・広島に4.5ゲーム差をつけて首位だったが、9月以降、失速して優勝を逃した。星野監督はこのシーズン限りで退任した。広島の逆転優勝が決まった後の10月15日、ナゴヤ球場での広島とのダブルヘッダーが第1期・星野中日の最終戦となった。今中氏はその2試合ともに先発した。「防御率(のタイトル)がかかっていたのでね」。1試合目は1失点完投で防御率は2.48。2.44で1位の広島・佐々岡真司投手に迫った。

 しかし、2試合目は1/3で1点を失ったところで交代。2.52の2位で終わった。「1試合目と2試合目の間が40分くらい空いたんですよね。10分、20分だったらいいけど、40分はちょっと肩も固まりますよね」。交代した時、星野監督は笑っていたという。「打たれて笑っている監督を見たのは、その時以外ないですからね」。“オレ流”からのアドバイス、佐藤投手コーチからのバックアップ、そして最後は“貴重な経験”で今中氏の3年目は終わった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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