4年間で脱臼7度の不運「プロは諦めた」 ガタガタの左腕…巻きつけた自転車のチューブ
韋駄天・松本匡史氏は東京六大学リーグ記録樹立も…三塁守備で大怪我
第1次長嶋茂雄監督時代にプロデビュー。「青い稲妻」のニックネームで盗塁を決めるさっそうとした姿に、プロ野球ファンの胸は躍った。昨今の盗塁王のタイトルは30個前後で争われる。それを大きく上回るセ・リーグ最多盗塁記録76個(1983年)を保持する元巨人・松本匡史氏が、野球人生を振り返る。
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高校野球の名門・報徳学園高で甲子園の土を踏んだ松本氏は、伝統の「早慶戦」に憧れて、念願の「WASEDA」のユニホームに袖を通した。プロを視野に入れる名選手たちの高い技術にもまれ、松本氏はのちの「青い稲妻」の片鱗を見せるのである。
当時の東京六大学リーグには、のちにプロでドラフト指名される選手が多数存在した。早大だけでも3年上に鍛冶舎巧(1975年阪神2位を拒否=松下電器、熊本・秀岳館高、県立岐阜商高監督を歴任)、1年上に香川正人(近鉄1977年5位)、同期に吉沢俊幸(阪急1976年3位)、八木茂(阪急1979年3位)、1年下に山倉和博(巨人1977年1位)の名が並ぶ。
松本氏の1年時は石井藤吉郎監督、2年から石山建一監督が就任する。「1年時は球拾いだった僕が、三塁を守ることになりました。守備の動きとか雰囲気を見て、抜擢してくれたのではないでしょうか」。松本氏が三塁レギュラーとなった早大は、2年春季リーグ戦で優勝を果たす。
「2年(1974年)春に15盗塁の記録を作りました。走ることに関しては小学校時代から自信がありました。僕は足で認められたんです」。これは1981年秋季リーグ戦で小林宏(慶大)に破られるまでのタイ記録である。
まだ2年生。松本氏には明るい展望が開けていた。だが、好事魔多し。
秋季リーグの立大戦。1死一塁で、三塁手前の緩いゴロを捕球した松本氏は一塁に送球。一塁走者が二塁を回って三塁を狙う。三塁ベースカバーに戻って飛び込んでタッチにいった松本三塁手は、走者に左腕を強く持って行かれた。
プロへの夢の扉を閉ざすことになるはずだった左肩脱臼の不運
脱臼……。左肩に選手生命を脅かす大怪我を負った。当時はテーピング等の治療法が発達しておらず、自転車のチューブを患部に巻きつけて再発を防止するアナログな方法だった。結果的に大学4年間で実に7度の脱臼。運気を変えようと本名の「哲(さとし)」を「匡史(ただし)」に改名したほどだった。
直後、東京六大学は「法明」時代を迎える。法大の1年上に岩井隆之(大洋1975年2位)、1年下に江川卓(クラウン1977年1位、1978年阪神1位=巨人にトレード)、金光興二(1977年近鉄1位を拒否=広島商高、法大野球部監督を歴任)、植松精一(1977年阪神2位)ら。明大の2年下には高橋三千丈(1978年中日1位)、鹿取義隆(1978年巨人ドラフト外)ら。
大学4年間8シーズンを終えた松本氏の通算成績は、67試合61安打、打率.235、3本塁打35打点。プロに指名される選手が通算100安打前後することを考えれば、到底プロに行ける数字ではなかった。脱臼癖も治っていない。
「プロは諦めて、内定していた社会人野球の日本生命に進むことを決意しました」
しかし、1975年の最下位から1976年リーグ優勝というドラマチックな戦いを演じた「長嶋・巨人」から、まさかのドラフト5位指名を受ける。松本氏の大学4年間の打撃成績は芳しくなかったが、盗塁数57個は、明大・高田繁が持っていた48個のリーグ記録を大幅に塗り替えていた。この俊足が巨人に評価されていた。
とはいえ、社会人の内定を反故にしてプロ入りに翻意することは道義に反する。イコール早大の後輩が日本生命に進めない危険性もはらむ。スカウトとも面会せず、プロ志望は胸の奥底にしまい込んだ。
(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)