巨人へのトラウマ払拭して覚醒 不安は「全くなかった」…左腕に“神”が降りた1年

中日で活躍した今中慎二氏【写真:山口真司】
中日で活躍した今中慎二氏【写真:山口真司】

今中慎二氏は1993年に249イニングを投げてタイトルを総ナメにした

 最多勝、最多奪三振、沢村賞、ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞……。元中日投手で野球評論家の今中慎二氏はプロ5年目の1993年、すさまじい活躍を見せた。31登板で17勝7敗1セーブ、防御率2.20。14完投、3完封で249イニングを投げ、247三振を奪った。初の開幕投手も務めた。7月6日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では1試合16奪三振のセ・リーグタイ記録もマークした。「その年は体の不安が全くなかったんですよね」と今中氏は最高の年を振り返った。

 この年の今中氏は初体験の開幕投手からスタートした。「何で俺が開幕って感じでした。郭(源治)さんも山本(昌)さんもいたんでね。開幕を言われたのはオープン戦の途中だったかなと思います」。4月10日の阪神戦(甲子園)、その大役を7回4失点で何とか乗り切り、勝利投手になった。5回まではゼロに抑えたが、6回に3失点、7回にも1点を失ってマウンドを降りた。大洋時代から苦手の阪神・パチョレックに1発を浴びた。

「ヘトヘトだった、疲れて……。5回までは頑張りましたけどね、何で、5回でこんなに疲れ切っているのって思った。開幕となれば、全然緊張感が違う。同じ100球でも疲労感が全然違った」。この経験は翌年以降にきっちり生かした。今中氏はこの年から4年連続で開幕投手を務めたが「2回目からは何となくキャンプから逆算して自分の波を作るようにした。自分でプランができるようになった」という。この初体験はまさに貴重なものになった。

 開幕の重圧を乗り越えて勢いづいたのか、無傷の4連勝と快調。前年(1992年)に曲がり幅が大きくなるなど進化したカーブを駆使し、奪三振も増えた。5月11日の広島戦(岐阜)で初黒星を喫し、ここから5連敗したが、きっちり立て直した。6月11日の巨人戦(ナゴヤ球場)に2失点完投して連敗をとめて以降は驚異のペースで白星を量産した。

 7月6日のヤクルト戦ではリーグタイの1試合16奪三振をマーク、8月8日の巨人戦(ナゴヤ球場)では1安打1失点10奪三振の快投で10勝に到達した。ラストは7連勝フィニッシュ。9月と10月は負け知らずだった。投球回は200イニングを大幅に超え、最多勝、最多奪三振で防御率も2位。沢村賞にも輝いた。「確かに成績も一番よかったけど、この年は体がね、シーズンを通して何ともなかったんですよ。不思議なことに。不安が全くなかったですね」。

91勝中、巨人から25勝「合わせて登板日が決まっていた」

 まさに充実の年だった。「イニング数も投げているけど、その年は自分のなかではしんどいとか、そういうのもあまりなかった。とにかく体が元気だった。その年だけじゃないかな」。今中氏は1シーズンを長いスパンで考えていた。「開幕は6、7割くらい。4月から徐々に上げて、梅雨時くらいにいい感じにしてね。4月からの登板の間の練習は、次の試合のための調整ではなく、夏に向けて。だからブルペンに入る回数もまあまあ多かったし、走る量も多かった」。

 最初は首脳陣に指示されてこなしていたが、もう完全に自分のやり方をつかんでいた。「さすがに夏はねぇ。名古屋は暑いし、やっぱりブルペンの回数も走る量も減るんですよ。それは仕方ないので。8月、9月になっていくとあとは惰性があるのでね。主力は夏に頑張らないと。春先はキャンプで頑張ってきた若手とか、新しく来た人たちが頑張るけど、レギュラークラスは5月、6月から調子を上げていく。そういう調整をしないと駄目と思ってやっていましたね」。

 試合の中でも計算していた。「序盤に1点取られても、何とかしてくれるだろうと思って投げていました。ナゴヤ球場だったし、点が入るじゃないですか。初回からガンガンいっているつもりですけど、スピードは立ち上がりは出ないなって思うし。でも回を追うごとに調子がよくなった自分がわかってきたら、ギアを上げた瞬間にスピードもビュッと出るし、9回を投げるなら、そのメリハリはあっていいと思っていました」。

 通算91勝のうち、25勝が巨人戦であり、その頃から巨人キラーと呼ばれていた。「それだけ巨人戦に投げたからですよ。巨人戦に合わせて登板日が決まっていた感じだったしね。でもね、東京ドームで勝ったのはこの5年目(1993年4月22日)ですよ。4年目までは1個も勝っていない。あの雰囲気なのかわからないけど。1年目にボコボコにされた(1989年6月18日、4回1/3、7失点)イメージがずっとトラウマだったような気がしますね」。それも克服した。

 1992年から高木守道監督体制となり「(前監督の)星野(仙一)さんとは違った厳しさがありましたが、ある程度、大人扱いもしてくれましたからね」と今中氏は言う。星野監督に育てられた左腕は、高木監督の下で、ついにエースと言われる存在になった。調整法も含めて“今中流”を作り上げた。この時、まだ22歳だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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