“イタズラ電話”で起こされた悪夢の1日 「記憶が飛んだ」冷静さ失った心理戦

中日で活躍した今中慎二氏【写真:山口真司】
中日で活躍した今中慎二氏【写真:山口真司】

今中慎二氏は1994年の10・8決戦に先発…早朝に“電話取材”を受けた

 中日と巨人がシーズン最終戦で激突して優勝が決まった「10・8」。1994年シーズンは、巨人・長嶋茂雄監督が「国民的行事」と呼んだ戦いが日本中で大いに話題となった。元中日投手で野球評論家の今中慎二氏は先発したものの、4回を5失点で敗戦投手に。本拠地・ナゴヤ球場で長嶋監督の胴上げを見る結果に終わったが、決戦当日はスタートから思わぬ展開だった。まさかのイタズラ電話に起こされたという。

 シーズン130試合制だった当時、中日と巨人は69勝60敗の同率首位で残り1試合。1994年10月8日のナゴヤ球場での直接対決は、勝った方がセ・リーグ優勝というまさに決戦だった。今中氏は1失点完投で13勝目をマークした10月2日の横浜戦(ナゴヤ球場)から中5日での先発。「そこで投げることは前から言われていたけど、前日の夜も緊張はしていなかったし、普通に寝ていた」。だが、昼頃に起きる予定が、その日の朝は午前7時すぎに1度起きた。

 その時間に電話がかかってきたからだった。受話器を取ると相手は某一般紙の記者を名乗ったそうだ。「朝っぱらから何だと思ったけど、今日の試合はどうのこうのって質問されて、真面目に答えたんですよ。その後、また寝ましたけどね」。大事な日に通常とは違う“2度寝”。「まぁ、だからってどうってことはなかったですけどね」と今中氏は話したが、生活リズムを狂わされたのは事実だろう。しかも、その電話はイタズラと判明した。

「球場に行ってから、朝からそんな電話があった。あり得ないよねって話をしていたら、その新聞社にはそんな人はいないってことがわかったんです。何だイタ電かよ、ちゃんと答えたのにって思いましたよ」。イタズラ電話が自宅にかかってきたのは、その時が初めてだったという。「かけた人も、あの試合に意気込んでいたんでしょうかねぇ。俺に何かしてやろうって……」。今もなおクールに振り返った今中氏だが、左腕の決戦の日はそんな形で幕を開けた。

 球場入りした時には、すでに開門されていたが「お客さんが入っているというよりもメディアがすごく多いなって思いましたね。だって通る時も(人が多くて)“ちょっとすみません”って感じでしたからね。ムードが違うというのはそれで思いましたね」。しかし、動じることは全くなかった。「試合前にブルペンに行こうと思ったらレフト側のマンションの上からも(球場を)見ている人が見えた。すげーな、あんなところからって、そんな余裕が自分にはあったんですよ」。

 朝に“アクシデント”があっても、いつも通りだった。「たぶん、記者の人たちに試合前に何か聞かれても答えていたと思います。逆に周りが気を使っていたって感じ。まぁ(高木守道)監督も普通で、って言っていたけど、俺も別に普通でいいや、何かをするって言っても今さらと思いましたからね」。今中氏は平然と決戦のマウンドに上がった。初回は巨人打線を3者凡退で抑えた。だが「こんな試合で3者凡退なんてってそれが気持ち悪かったですね」。

落合博満を内角直球で詰まらせるも…タイムリーに「冷静さを失った」

 巨人の2番・川相昌弘内野手が三振したにもかかわらず、うなずいていたのも気になったという。「何なの、あのうなずきは、クソ余裕か、みたいな……。普段しないことをされたのでね」。この試合前まで今中氏はナゴヤ球場での巨人戦に11連勝していた。そこで巨人打線は最終戦前までに今中氏を徹底分析し、癖を見つけていたと言われる。

「(その試合で本塁打を許した)村田(真一)さんは『癖じゃないよ』って何回会っても言われますけどね。まぁ、それはどうでもいいんですよ」と今中氏は話す。それよりも最大のポイントは巨人の4番・落合博満内野手との対決だった。2回に一発を浴びたが「あれは投げ損じですからね。インコースに投げたのがど真ん中に入って」とそれほどのダメージではなかったという。その回、さらに1点を追加されたが、それでもまだ……。

 今中氏が「あれからおかしくなった」と言うのは3回の対落合だ。2回に中日打線が同点に追いついた直後。先頭の川相に右前打、3番・松井秀喜外野手が送りバントを決めて1死二塁となって落合が打席に入った。ワンストライク後の2球目だった。インコースの143キロストレート。これに落合はどん詰まりの打球を打ち上げた。それがフラフラっと一塁と二塁の間あたりにポトリと落ちた。勝ち越し適時打だ。

「(前の打席で)ホームランを打たれたから、もう一発インコースにいって抑えなければいけないという気持ちで投げた渾身のボールをどん詰まりで落とされた。抑えたと思っただけに、自分の中で冷静さを失ったんでしょうね。余計、腹が立ったし、自分を許せなかった。それ以降のことはあまり覚えていないんです。たかだか1点勝ち越されただけだったのにね」。終わってみれば、やはり特別な試合で、いつもと違う何かがあったということだろうか。

「ゲームに入りすぎていたのか切り替えができなかった。いつもはできるのに、その試合はできなかった。まだ3回、そのうち野手が打つやろって思えば何てことないのに、3点目で決着がついてしまったような感じになってしまった。不思議な試合でしたね」。4回に村田とコトーに一発を浴びた時は、もはやいつもの今中氏ではなかった。「落合さんとの対戦で、もうどうかしていたのでね」と言うほどだ。

落合博満に言われていた「お前と対戦する時はカーブを狙う」

 4回で降板した後もそう。「ベンチにいても何も目に入ってこなかった。ただボーッと見ているだけ。(8回裏に)立浪(和義)さんの(一塁への)ヘッドスライディング(内野安打も脱臼して交代)で『あっ』と思った。まだゲームをやっているなってね。記憶が飛んでいた。後になって、あの試合で松井がバントしたんだって思いましたから、それは落合さんに打たれる前のことだったのにね」。これが今中氏の「10・8」だった。

 落合は前年(1993年)オフに中日からFAで巨人に移籍したが、今中氏は「まぁ、その前から心理戦は始まっていましたけどね」とも明かす。「1993年の9月くらいに落合さんに『来年、お前と対戦するときはカーブを狙う』って言われたんですよ。ああいう人が言うとね、頭に残るんです。ランナーがいない時ならいいけど、二塁とかにいたら、もうカーブは投げられないじゃないですか。ライト前に打つのが好きな人だから。まぁそこで負けていますよね」。

 それだけではない。「俺が2年目(1990年)のキャンプ中、シートバッティングに投げる時に落合さんが俺に『カーブを投げろ』って言ったんですよ。『それをライト前に打つから』って。そこから始まっているんです。2年目なんて1軍生き残りがかかっている時。抑えなければいけないのに何でカーブを投げて打たせるんだよって話ですけどね」。当時の落合の意図はともかく、今中氏には巧みなカーブ打ちが、その頃から強烈にインプットされていたわけだ。

「でもね、落合さんにカーブをホームランされたことは多分ないんですよ。あの人はインコースの真っ直ぐを嫌いだって言いながら、俺がそこへ投げるのを待っていたそうです。落合さんが(中日)監督の時に聞きました。スゲーなって思いましたよ。落合さんは俺の落ちないフォークが『意外とあれが邪魔だったんだよ』とも言っていました。それを聞いとけばなぁってね」。これもまたプロの戦いの裏側のひとつだろう。

 長嶋監督が「国民的行事」と呼んだ試合の記憶が途切れているなかで、落合の“どん詰まりタイムリー”は何ともショッキングな出来事として忘れることはない。まさかの朝のイタ電から始まった「10・8」だが、それは今中氏にとって、巨人戦というよりも“落合戦”だったようだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY