顧問が運動音痴…日替わりコーチに「頭が混乱」 巨人の守護神へ“のし上がれた”理由

元巨人・角盈男氏【写真:荒川祐史】
元巨人・角盈男氏【写真:荒川祐史】

球団最多タイのセーブ数…「巨人の星」がバイブルだった角盈男氏

 1981年に20セーブを挙げて最優秀救援のタイトルに輝くなど、1980年代巨人の守護神として活躍。球団史上最多タイの93セーブ、さらに日本ハム、ヤクルトも含め通算618試合に登板し、38勝99セーブをマークした角盈男氏。「変則左腕」のパイオニア的存在が、野球人生を振り返る。

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 1956年(昭和31年)、鳥取県米子市に生まれた角氏。小・中学生のころは「スポ根アニメ・ドラマ」の全盛期だった。「サインはV」「タイガーマスク」「柔道一直線」「あしたのジョー」……。

「少年時代の僕にとって、プロ野球そのものに興味はありませんでしたが、バイブルは『巨人の星』でした。テレビの前で正座をして見ました」。同じサウスポーの星飛雄馬が、右足を頭より高く上げて“消える魔球”を投げるシーンに夢中になった。

「毎晩このテレビ番組が終わると、なぜか庭に出てウサギ跳びで体と心を鍛えたくなる衝動にかられましたし、近所の工場に『大リーグボール養成ギプス』の製作を頼み込んだこともあります。男3人兄弟で、俺にはなぜ“明子姉ちゃん”がいないんだ、と思ったこともありましたね」。そのくらい感化されていた。

 だが、角氏にとって、野球のスパルタ教育を施す“星一徹”の存在はなかった。美保中学時代の野球部の顧問の教員は野球音痴でノックを打てない。「米子工高時代は、日替わりコーチのOBが毎日違うことを教えてくるので頭の中が混乱しました」と当時を懐かしむ。

 そんな中、角氏は15歳ですでに183センチの長身。荒れ球だが、めっぽう速い球を投じた。当時の憧れは、オールスター9連続奪三振(1971年)をマークした江夏豊(阪神)。本人いわく「将来プロに行ける逸材だと評判の、田舎のスターでした」。

 しかし高3夏の地方大会は、「事実上の決勝戦」鳥取西高を相手に1回戦で敗れ去った。

都市対抗野球での快投…『巨人の星』の2軍監督の目に留まる

 角氏が生まれて以降にプロ入りした鳥取県出身や、同県の高校出身の主な野球選手を、角氏を含めて列挙する。

・米田哲也(境高→阪急1956年=通算350勝)
・福士敬章(鳥取西高→巨人1968年ドラフト外=通算91勝)
・小林繁(由良育英高→神戸大丸→巨人1971年6位=通算139勝)
・角盈男(米子工高→三菱重工三原→巨人1976年3位=通算99セーブ)
・川口和久(鳥取城北高→デュプロ→広島1980年1位=通算139勝)
・加藤伸一(倉吉北高→南海1983年1位=通算92勝)
・能見篤史(鳥取城北高→大阪ガス→阪神2004年自由枠=通算104勝)
・九里亜蓮(岡山理大附高→亜大→広島2013年2位=通算64勝)

 共通項は「投手」だ。打者は、速球派なり技巧派なり、あらゆるタイプの投手を打たないと大成するのは難しい。そういう意味では約200校のエースが存在する神奈川や大阪など、大都市圏は大打者を輩出する。

「一方の投手は、大自然に育まれて強靱な足腰を作り、本人の努力次第で1人でもノシ上がれる。鳥取は後者なのではないかと、僕は思っています」

 角氏が社会人野球の三菱重工三原に進んだ1年目の1975年、19歳の晩秋だった。会社の先輩の田中由郎(ロッテ1位=通算12勝)、簑田浩二(阪急2位=通算1286安打)がドラフト会議で上位指名された。

「漠然と思い描いていたプロ野球選手の夢が、はっきりターゲットに変わった瞬間でした」。翌1976年の都市対抗野球、広島マツダの補強選手として出場すると、2回戦で新日鐵堺を相手に7安打完封の快投劇を演じる。

 そこで角氏を見初めたのは、「巨人の星」にも2軍監督としてたびたび登場した中尾碩志(当時スカウト部長)。往年の200勝左腕だ。角氏は長嶋茂雄監督V1オフのドラフトで巨人に指名されたが、「1年間会社に残って恩返しを果たしたのちにプロ入りしたのです」。本物の『巨人の星』となる夢が俄然、近づいてきた。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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