中日に目もくれず「どっちが強いと思ってるの」 友人に痛烈一言…名古屋で貫いた巨人愛

中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】
中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】

彦野利勝氏は名古屋市港区で育ったが熱狂的な巨人ファンだった

 1988年、星野仙一監督率いる中日はリーグ優勝を成し遂げた。10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)に11-3で大勝して決めたが、その試合で先頭打者本塁打を放つなど強打強肩の「1番・センター」で活躍したのが彦野利勝氏(野球評論家)だ。闘将の抜擢でチャンスをつかみ、レギュラーに定着。1991年に右膝蓋腱断裂の大怪我に見舞われたが、不屈の闘志で復活した。そんな彦野氏の野球人生。その原点は野球漫画にあった。

 名古屋市港区で育った彦野氏は子どもの頃、熱狂的な巨人ファンだったという。「親父も周りもみんな中日ファン。友達はドラゴンズの帽子をかぶって小学校に行ってましたが、僕はジャイアンツの帽子。中日の“ちの字”もありませんでした。巨人のV9時代ですから『どっちが強いと思っているの』なんて言いながらね」。1974年に中日が巨人のV10を阻止して優勝。「あの1年だけでしたね。僕の方がいろいろ言われたのは……」。

 その1974年に引退したミスタージャイアンツ・長嶋茂雄氏の大ファンだった。「最初にテレビで見た時からかっこいいなと思いました。それに勝負強いところ。低い球だろうが、高い球だろうが、少々ボールだろうが、それをヒットにして決勝打にするイメージがありました」。そんな巨人を知ったのは漫画だった。「巨人の星とか、侍ジャイアンツとか、巨人をピックアップするのが多かったでしょ。漫画を見て、野球をやってみたいなって気持ちにもなったと思います」。

 しかし、早々に挫折もあったという。「小学2年の時くらいから父親とキャッチボールをしていたんですが、あるとき親父の同僚の若いお兄ちゃんとすることになった。その球が当時の僕にはとても速く見えて、捕れずに眉間のところに当たった。それでもう単純にボールが怖くなって野球はやめました」。しばらく野球はテレビで見るだけだったそうだ。それが変わったのは小学校の授業がきっかけだった。

「授業でソフトボールがあって、やらないわけにはいかないじゃないですか。そうしたら球は速くないし、怖くなかったし、いい当たりが打てたし、これならできるなってなったんですよ」。小学5年で東築地小学校の軟式野球部に入った。「楽しくやっている感じでした。ノックとかはあったけど、しごかれるとかはなかった。負けてばかりでしたけどね」。小学6年時にはクラブチームの「昭船ライオンズ」(現在の東築ライオンズ)が誕生し、1期生としてそこにも所属した。

「アストロ球団」に夢中「アンドロメダ大星雲打法が好きだった」

 彦野氏はその頃からすでに肩が強く、球も速く、打撃でも目立っていた。「ウチの裏が海なんですよ。名古屋港。野球をやるかやらないかって頃に、石をどこまで遠くまで投げられるかやっていた。ひとりで。ひとりっ子だったし、やることないしね。その辺に角材とか鉄の棒とかも落ちていたので、それで石をバンバン打っていた。スイングもある程度できたのはそのおかげかもしれないし、肩も石を投げていたことで強くなったかもしれないです」。

 その手本は漫画だった。「それで覚えたというか、真似をしました。ヒントになるのがちょいちょい出てくるんですよ。僕のバイブルはアストロ球団なんです」。1972年から1976年にかけて週刊少年ジャンプで連載された漫画「アストロ球団(原作原案・遠崎史朗、作画・中島徳博)」はボールの形をしたアザを持つ9人の超人で最強チーム結成を目指す物語。「打倒米大リーグ」の目標が掲げられ、魔球や必殺技が次々と飛び出し、人気を集めた。

「野球だけど、半分野球じゃないんですけどね。画期的だったと思うんです、あの当時にあんなの考えて……。僕は“高雄球六”のファンでした。アンドロメダ大星雲打法が好きだったんでね」。ちなみに三段ドロップ、スカイラブ投法、ファントム大魔球、ジャコビニ流星打法などを駆使するエースで4番は「宇野球一」。9人の超人の名前には「球」の文字とポジションを意味する「漢数字」が入っており「高雄球六」はショートを守る超人だ。

「下から投げたり、上から投げたり、打つのも全部やったなぁ、ああいうのに憧れるんですよね」。ピッチングフォームもバッティングフォームも最初はすべて「アストロ超人」から学んだ格好。それは東港中の軟式野球部でも流行ったという。「俺があれやるとか、俺は誰とか。みんな真似していましたよ。バットの構え方とかもね。好き勝手にやっていましたね。まぁ、それでうまくなるわけはないんですけどね」。

 彦野氏の野球熱をより高めた「アストロ超人」との出会い。「バカみたいな話ですけど、三段ドロップってどうやって投げるのだろうかとかもやりましたからね」と言って笑みを浮かべたが、そんな時代があったから野球を続けられた。愛知高では甲子園に出場して、中日入りもできた。強打強肩の1番打者にもなった。成果につながったかはともかく、漫画の影響力は大だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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