300球の投げ込み、疲れ果てた左腕 「責任は俺が持つ」長嶋監督が破った“球界のタブー”
角盈男氏きっぱり…今だから明かす「サイド転向」本当の理由
「変則左腕」のパイオニア的存在だった角盈男氏は1981年に20セーブを挙げ、最優秀救援のタイトルに輝くなど、1980年代の巨人の守護神として活躍した。日本ハム、ヤクルトも含め通算618試合に登板した角氏が、引退から31年の時を経て自らの野球人生を振り返った。第4回は「サイドスロー転向」のきっかけについて。
◇◇◇◇◇◇◇
角氏は1978年に新人王を受賞。翌1979年に「江川事件」が勃発したが、ナインはその“怪物”ぶりに脱帽する。だが、江川のトレード相手となった阪神・小林繁に0勝8敗、巨人は5位に沈んだ。チーム再建のため、長嶋茂雄監督は若手総勢18人を率いて、そのオフの10月28日から26日間、静岡で「地獄の伊東キャンプ」に臨んだ。
巨人の秋季キャンプは、1936年プロ野球の黎明期、第1期黄金時代を築いた藤本定義監督による群馬県館林での「茂林寺の特訓」以来、実に43年ぶり。いかに、“お家の一大事”だったかを物語っていた。
長嶋監督いわく「レギュラーポジションは与えられるものではなく、奪い取るものだ」。個人個人が、命題を持って挑んだ。松本匡史はスイッチヒッター転向。中畑清は4番打者奪取。江川卓はカーブ以外の球種、西本聖はシュート以外の球種の習得。
そして角氏は「好不調の波をなくし、安定した力を出せる投げ方を見つけること」だった。
「説明するのが面倒だから、世間には『コントロールをよくするために(伊東で)サイドスローに転向した』と言っていますが、実際は違うんです」
「とにかく左肘を上げて投げろ!」と高橋良昌コーチに言われ、1日300球をガムシャラに投げ込んだ。当時は球数制限もない。逆に疲れて左腕が徐々に下がってきた。「あれ、左腕のこの位置はしっくり来るぞ」。
まさに怪我の功名。「頭で描いた投球の軌道と、実際に投じた球の軌道が一致する。修正もすぐに効くんですよ」。もともと我流の投球フォーム。角氏にとっては、投げ方が上だろうが、下だろうが関係ない。「この腕の位置からなら、何球でも投げられる。それがたまたま、サイドスローだったんです」。
長嶋監督は続投意欲満々…「守護神役」を仰せつかるも…
「でも当時、183センチも上背がある左腕がサイドから投げるなど、球界の一種のタブーでした。右打者からは球の出どころが見やすくなるためです」
さすがにコーチも長嶋監督におうかがいをたてた。「本人がこの投球フォームでやりたいと言っています。私もやらせてみたいのです」。指揮官はこう答えたという。
「マスコミや評論家の反応を気にする必要はない。責任はすべて俺が持つ」
これが角氏の投手人生を大きく変える、ターニングポイントとなった。
1978年と1979年はローテーションの谷間で先発していた角氏だったが、「馬力がある角には毎日でも投げてもらいたい」という首脳陣の要望でリリーフ専任となった。1980年にはリーグ最多の56試合に登板した。
ペナントレース130試合目の広島戦、先発・江川を引き継いで、角氏は2イニングを4奪三振。11セーブ目を挙げ、ウイニングボールを長嶋監督に手渡した。
「角、来年はストッパーを頼んだぞ!」
2年連続日本一に導いた江夏豊の活躍で、球界には「守護神あるところに覇権あり」の機運が高まっていた時期。勝利の握手の力強さに、監督の翌年の優勝に懸ける思いを感じ取った。
だが翌日、衝撃的なニュースが飛び込んできた。「長嶋監督解任!」
角氏は狐につままれた思いだった。
(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)