監督絶望、先輩から苦情…死球連発で「外野に行け」 プロへ導いた“失格の烙印”
彦野利勝氏は愛知高1年秋にエース・槙原の大府高に手痛い敗戦
槙原寛己氏(元巨人)と工藤公康氏(元西武など)。元中日外野手で野球評論家の彦野利勝氏にとって、1学年上の2人は高校時代の思い出深い投手だ。いずれとも愛知県大会で何度か対戦。愛知高1年(1980年)秋は槙原氏の大府に、2年(1981年)夏は工藤氏の名古屋電気(現愛工大名電)に甲子園出場を阻まれた。「槙さんは速かった。あんな球、初めて見ました。工藤さんのカーブも昔でいうドロップ。それも初めて見ましたね」と当時を振り返った。
1980年、彦野氏は自ら希望して愛知高に進学したが、名古屋市港区の自宅からバスや地下鉄を何回か乗り継いでの通学時間は「下手すると2時間、うまくいって1時間45分くらいかかった」という。ナイター設備もあって練習は午後9時頃まで。家に戻ると午後11時過ぎで、そこから夕食。朝は5時に起きて朝食をとり、6時には最寄り駅までのバスに乗るスケジュール。「学校に寮があるので監督に入れてほしいと言ったんですけど寮は県外者だけ、お前は通えって言われて……」。
1年夏の大会までは試合に出ていない。「ピッチャーでしたけど、ストライクが入らなかった。力んでいたんですかね。1年生はバッティングピッチャーもやらなければいけないんですけど、いわゆる8割くらいで投げて打たせることができなかった。常に全力投球になって、しょっちゅう先輩に当てていたんです。それで苦情が出て、監督に呼ばれて『しばらくピッチャーはやめて外野に行け』って言われたのが外野手の始まりでした」。
強肩の上に打撃でも非凡なものを見せていたようで新チームでは「3番・センター」に抜擢された。「愛知高のいいところって、全員打たせてくれるんですよ。1年生も練習の時に。数はものすごく少ないですよ。でも他のチームみたいに球拾いだけとかじゃないんで、(大会で)応援団でも打たせてくれたんです」。実際、秋の大会では結果を出した。「たぶん5割くらいは打ったと思います」。しかし、愛知県の上位4校による決勝リーグ戦で1勝2敗に終わった。
その時点で翌1981年春の選抜出場の夢は絶たれた。決勝リーグでは中京と槙原氏の大府に敗れた。当時から150キロのストレートを投げていた速球派。「僕は速い球には振り負けない自信があったんですけど、槙さんみたいに伸びのある球は見たことがなかった。最初、首くらいの高さの球を振っていた。自分ではもう少し低く見えたんですけどね。その打席は振り遅れて確かファーストゴロだったと思います」。
それでもこの試合で彦野氏は4打数2安打を記録している。「打ったのは3打席目と4打席目ですよ。センター前と右中間三塁打。こっちもだんだんコンパクトになって慣れてきたのと、槙さんの球威も落ちてきたからだと思います。だって高校の時の槙さんって真っ直ぐしか投げてこなかったんですよ」。2安打したが、その凄さも十分に感じ取った。この1度の対戦で学ぶことも多かったそうだ。
工藤氏とは3度対戦「カーブを最初は全く打てませんでした」
もうひとりの大物・工藤氏とは3度対戦したという。「最初は市の大会、4タコで2三振でした。初めて見るあのカーブを全く打てませんでした。試合も確か0-10のコールド負けだったと思います。普通の人が投げるカーブは当然見たことがあったけど、あんなに、まぁ昔でいうドロップですよね。二段ドロップくらいじゃないですか、きゅきゅっと食い込んでくるように曲がってくるから」。しかし、彦野氏は敢えて、そのカーブに向かって行くことにした。
「次に工藤さんと当たったらカーブしか打たんとこって思ったんです。真っ直ぐは打たないでいいってね」。2度目の対戦は彦野氏が2年春の県大会。カーブだけ狙って3安打した。「どの辺から曲がってくるとストライクなんだというのがわかれば、あとはタイミングでした」。真っ直ぐには無反応、ボール球のカーブは振らず、ストライクカーブに絞って結果を出した。難敵の得意球に対応できた。試合には3-5で敗れたが、収穫も多かった。
3度目の対決はその年の夏、愛知大会決勝。結果は2-3で敗れ、3番・センターの彦野氏は2打数1安打3四球。警戒されていたようで3打席目まではすべて四球だった。「4打席目はフルカウントから真っ直ぐにちょっと差し込まれて、一、二塁間のゴロを(名古屋電気二塁手の)雅(高橋雅裕=元横浜、ロッテ)にさばかれた」。春の大会のこともあってか、ストライクカーブは1球も来なかったという。
試合は1-1の同点で迎えた9回に名古屋電気が2点を奪った。「9回表が終わってベンチに戻ってきたら、先輩が泣いたり、涙ぐんだりしていて、それを見て、カッコつけて『俺がホームランを打って同点にしてきます』みたいなことを言ったんですよ。そしたら、2死一塁だったか、そのシチュエーションで回ってきたんです」。それが5打席目で中越えのタイムリー二塁打を放った。
「フェンス直撃か、フェンスにショートバウンドか。ちょっと詰まったんです。その時もカーブを待っていたんですが、打ったのは真っ直ぐでした」。予告通りの同点アーチにはならなかったが、1点差に迫る一打で意地を見せた。「思い返してみると、僕も読みが浅いですよね。逆手にとって真っ直ぐ狙いにしていれば……」。敗れた悔しい思いとともに、忘れられない試合になった。
名古屋電気・工藤投手はその夏の甲子園でノーヒットノーラン(2回戦、対長崎西)を達成するなど全国に名を轟かせた。「槙さんも工藤さんもプロに行くというのがもっぱらだったし、その人らと対等にやれたのは自信になりました」と彦野氏は言う。1学年の上のスーパー投手2人との対戦が技術向上にもつながった。「プロも行けるんじゃないかと思いましたね」。その頃が高校時代では一番良かった時期でもあった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)