「平成の大エース」を生んだ偶然 鳴かず飛ばず→突如覚醒…地獄キャンプの副産物

元巨人・角盈男氏【写真:荒川祐史】
元巨人・角盈男氏【写真:荒川祐史】

変則フォームからの「消える魔球」…1981年にタイトル獲得した角盈男氏

 球団史上最多タイの93セーブを記録するなど、角盈男氏は1980年代巨人の守護神として活躍した。さらに日本ハム、ヤクルトも含め通算618試合に登板。「変則左腕」のパイオニア的存在が、野球人生を振り返る。第5回は「地獄の伊東キャンプ」について。

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 1978年に新人王を受賞した角氏は、さらなる飛躍をめざした「地獄の伊東キャンプ」の特訓で、サイドスローの「変則投法」を編み出した。そして1980年代初頭、巨人の守護神として君臨する。

 長嶋監督は、1979年秋に伊東キャンプを実施し、1980年に成果の実践(リーグ3位)、1981年には優勝の「3年計画」を立てていたが、1980年限りで退任。藤田元司監督は長嶋監督の“ストッパー・角”の意向を引き継いだ。後楽園球場で試合終盤、「ピッチャー・角」がコールされるや、耳をつんざくような大歓声が湧き上がった。「あれこそストッパー冥利に尽きる瞬間でしたね」。

 新人王を受賞した1978年(60試合、5勝7敗7セーブ、防御率2.87)と最優秀救援のタイトルを獲得した1981年(51試合、8勝5敗20セーブ、防御率1.47)を比較すると、9イニング平均与四球率は6.15個から2.85個に、同平均奪三振率は7.11個から10.44個に、いずれも劇的な向上を遂げた。サイドスロー転向は大成功。1983年にも18セーブを挙げて、リーグ優勝に貢献した。

「球種はストレートとカーブ、スライダー。『外角の出し入れ』と『真ん中高め』で勝負しました」。左変則フォームから繰り出される投球で、打者たちを翻弄した。

 1979年、ストライクが入らなかった広島戦後に“魂”を注入してくれた長嶋監督は、角氏にとっての「星一徹」だったのかもしれない。抑えのエースとしてマウンドに君臨した角氏は、まさに少年時代に憧れていた「巨人の星」となり、燦然と輝いたのだ。

「打たれて新聞の1面を飾る」のが超一流の守護神

 角氏は、左腕サイドスローのパイオニア的存在になった。遠山奬志(元阪神ほか)、森福允彦(元ソフトバンクほか)、宮西尚生(日本ハム)、嘉弥真新也(ヤクルト)、高梨雄平(巨人)らは「左打者対策」が主な目的だが、当時はまだ右打者全盛、角氏の活躍は“対左”だけにはとどまらなかった。

 元々オーバーハンドだった角氏は、伊東キャンプで「投げやすい位置」を偶然見つけて、結果的に腕を下げた。実はこれに大きな影響を受けたのが斎藤雅樹だ。1982年ドラフト1位で入団したが、鳴かず飛ばず。藤田元司監督は「セイロク(斎藤)は角と同じタイプだから、少し腕を下げさせる。腰の回転がサイドスローに合っているんだ」と判断。1984年の4勝から1985年には12勝。大変身を遂げた斎藤はのちに「平成の大エース」と呼ばれる。

「投手出身の藤田監督の慧眼なんだけど、もとはと言えば、僕のおかげですね(笑)」。角氏の背番号「11」が、のちに斎藤に禅譲されたのも何かの縁か。

 角氏の巨人通算93セーブは、球団史上1位の記録だ(1位タイ=マーク・クルーン93、3位・西村健太朗81)。「でも、僕は記録や数字にこだわっていません」と角氏は語る。

「抑え投手は打たれて新聞の1面を飾れ。そうなってこそ一人前だ」。守護神の先輩・江夏豊(広島ほか)の言葉を胸に、ファンの思いを背負ってマウンドに登った。数字にはこだわらないが、それが巨人の最後のマウンドを託された「守護神・角」のプライドだった。

 1984年からの王貞治監督時代も、4年連続40試合登板。「勤続疲労」で角氏の左肘は悲鳴をあげていた。さらに右太もも内転筋も痛めた。それでも中継ぎエースを任され、1986年には「鹿取義隆(右横手59試合)―角(左横手54試合)―ルイス・サンチェ(右上手37試合)」の“勝利の方程式”が流行語になった。1987年にはリーグ優勝に貢献している。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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