恩師の一言が生んだ覚醒「お前、わかってるやろな」 報道陣も驚いた異例の“罰則”

中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】
中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】

ナゴヤ球場で異例の“居残り練習”…ざわついた報道陣

 名参謀・島野育夫氏。闘将・星野仙一氏との最強コンビは有名すぎるが、元中日外野手で野球評論家の彦野利勝氏にとっても大恩人だ。「僕の担当コーチでしたからね」。1987年から1991年までの第1期星野政権では、1軍外野守備走塁コーチ(1990年からは作戦コーチも兼務)の島野氏に徹底的に鍛えられた。「よく監督が怒る前に怒ってくれました」。星野中日は1988年にセ・リーグを制覇するが、優勝目前の時期には異例の“居残り練習”を命じられたこともあった。

 プロ5年目の1987年に1軍に定着した彦野氏は、6年目の1988年にもさらに進化を遂げた。レギュラーセンターだった平野謙外野手がトレードで西武に移籍したことも重なって、チャンス拡大。「1番・センター」として中日のリーグ優勝に貢献した。113試合に出場し、打率.273、15本塁打、47打点、9盗塁。すべての部門で前年を上回った。打つだけではなく、強肩守備も注目を集め、ゴールデン・グラブ賞も受賞した。

 そんな彦野氏の守備力をアップさせたのが島野コーチだ。「平野さんがトレードになって、島野さんに『お前、わかっているやろな』って言われたのも覚えていますね。あの年は成績うんぬんよりも1年、ある程度しっかりできたこと。いいところでちょいちょい活躍もできたこと。何か1人前になったと感じたかなぁ」。そう振り返ったが、その年は試合後に島野コーチに異例の練習を命じられたことがあった。

 ナゴヤ球場でのナイター後のことだった。ネット裏の記者席では試合後取材を終えた記者たちが執筆作業に取り組んでいた。そんな時間に突然だった。消えていた球場の照明が一部再点灯し、グラウンドに島野コーチと彦野氏が現れ、センターからホームへの送球練習が始まった。何度も何度も繰り返し、なかなか終わらなかった。罰則練習であることは見ればわかるが、それまでこの形での居残りは行われたことはなく、報道陣もざわついた。

「あれは確かマジックがもう1桁くらいになった頃。前の試合で、ランナーが二塁にいて、センター前ヒットを僕が捕ってホームに投げたら、少し高くてセーフになって、バッターランナーもセカンドまで行っちゃった。で、また打たれて、それが決勝点になったんです。試合後のミーティングで『お前の送球が低かったら、セカンドまでは行ってないんだから』って言われて『すみません』って……。エラーではないんですけど、エラーみたいなもんだってことでね」

 そのミスを彦野氏は次の試合でもやってしまった。それが、居残り練習になった日のことだ。「前の日に言われていたにもかかわらず(同じ状況で)センターから(の送球が)少し高くいったんです。うまいことバッターランナーもセカンドまで行って、またそういう時に限ってピッチャーがタイムリーを打たれるんですよ。そしたら(試合後)星野さんがブチ切れちゃって……。そこを島野さんが間に入ってくれて『監督、今から練習させますから』ってなったんです」。

名参謀・島野育夫氏が「僕を救ってくれた」

 そんな状況での練習も甘くはなかった。「僕と島野さんがセンターのあたりにいって、(バッテリーコーチの)加藤(安雄)さんがいたのかな、キャッチャーはただしゃがんで構えているだけ。そこにいい球を30球投げたら終わりでした。ノーバンでもワンバンでもいいんですけど、普通、そんな構えの人に投げられる人は何人いるよって話ですよ。でもね、ホント、そういう練習ばかりさせられたからコントロールはよくなりましたね」と彦野氏は懐かしそうにも話した。

「僕らは捕りやすいボールを投げろって言われていた。肩が強いから思い切り投げればいいってもんじゃないぞって、相手が捕れなかったら一緒やないかって、だから計算してアウトになるところに投げる。どの角度からもそういけるように練習していた。今の選手たちを見ていると、(送球が)それるのがもの凄く多いじゃないですか。あんなのだったら、ずっと練習していなければいけないですよ」。忘れられない島野氏の教え。だからこそそう言いたくもなるのだろう。

 その時に限らず、島野氏にはよく助けられたという。「僕の場合は星野さんが手を出す前に島野さんが『ワシがやっとくんで』というのがよくありましたね。でもね、島野さんが間に入らなくてほったらかしだったら、監督に怒られることもなく、見切られていたかもしれないです。僕を他の選手に替えればいいことですから。シーズンを通してその都度、島野さんが僕を救ってくれたと思います」。令和の今では考えられない世界だが、それで彦野氏が成長したのも間違いない。

 今、振り返っても最後は独走でとにかく強かった1988年の星野中日。優勝を決めた10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)で彦野氏は先頭打者ホームランを放った。「前の日のマジック2の時、8回裏に(ヤクルト投手の)尾花(高夫)さんから逆転2ランを打って勝ったんです。よっしゃ、俺の手で優勝を決めたと思ったらマジック対象チームが勝って1個しか減らなかったんです。じゃあ明日もっ、て意気込んで打ったのが1打席目でした」。

 そんな彦野氏の言葉だけでも当時の中日の勢いを感じさせる。星野監督の胴上げはスタンドからファンが大乱入してもみくちゃ。「(センターの)僕が監督のところに行くよりもお客さんの方が早かったですからね。近くまでは行きましたけど、胴上げをやっているふりをした感じ。帽子は取られたし、グラブも取られそうになったし、ユニホームは引っ張られるし、途中からは逃げるようにベンチに戻りました。あれは危なかったですよねぇ……」。

 昭和天皇のご病気もあって、ビールかけは自粛、パレードもなかったが「その時は来年も再来年も優勝できるわって感じでしたからね」と彦野氏は言う。「オーストラリアV旅行では島野さんに(当時)高校生の息子さん(敦識氏)の面倒を見てくれって頼まれたり、楽しかったですね」。まさかそれが自身の現役時代で唯一の優勝経験になるとは思ってもいなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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