全身麻酔で無理やり曲げた膝「ペキっと」 高い代償を払ったHR…復帰までの壮絶な闘い
彦野利勝氏は1992年に背番号を「57」から「8」に変更…再起を期した
恐怖心との闘いでもあった。元中日の強打強肩の外野手で野球評論家の彦野利勝氏はプロ10年目の1992年シーズンから背番号を「57」から「8」に変更した。「ずっと欲しい番号だったんです」。1991年6月に右膝蓋腱断裂の大怪我を負い、そこからの復活を目指すシーズンであり、高木守道新監督になったシーズンということも重なっての心機一転でもあった。だが、道のりは、たやすくなかった。自分のバッティングをなかなか取り戻せなかった。
1991年6月18日の大洋戦(ナゴヤ球場)でサヨナラホームランを放ちながら、走塁中に右足に異変が発生して転倒した。動けなくなりダイヤモンド1周ができず、代走が送られる事態に。右膝蓋腱断裂で7月1日に再建手術を行い、退院できたのは4か月後の11月1日だった。チームは星野仙一監督が退任し、高木氏が新監督に就任したが「足はおそらく100%までには治らないと言われていたし、どこまで戻ることができるのだろうって不安でした」という。
そんななか、彦野氏は球団に対して背番号8への変更をお願いした。「前から言っていたんですよ。8番がいいって。でも当時は(捕手の)大石(友好)さんがつけていたし、星野さんも『ドラゴンズの57彦野でどうだ』って。巨人で(駒田、槙原、吉村の)50番トリオが流行った時があったじゃないですか。『お前もそれで行けよ』って変に納得させられていたんですけど、怪我もしたし、大石さんがコーチになって空いたし、監督も変わったし、心機一転ということでね」。
この申し出を球団サイドは2つ返事で承諾した。「こんな簡単にもらえるんだって思いましたね」と彦野氏は振り返りながら、こう続けた。「とにかく僕はずーっと8番が好きだったんです。センターってこともあるけど、プロ野球選手の8番って右の主砲というイメージが勝手にあって……。山本浩二さん、大杉(勝男)さん、原(辰徳)さん。僕が子どもの時、好きだった高田(繁)さんもそうだったしね」。
1992年は2軍キャンプスタートのリハビリ組ながら、待望の背番号8。しかし、まだ軽い練習しかできなかった。その後も前進したのは少しだけで開幕も当然2軍。「打つことはできても走ることができなかった。打つのも何となく合わせてポンと反対方向には打てたんですが、強打でレフトスタンドに放り込むようなスイングは怖かった。いろんな意味で加減してしまうというか……。だからって、走り込みもできないし、その辺はジレンマがありましたね」。
それが4月のうちに1軍から声がかかった。「守道さんが『来い』って言ったんですよ。僕は『無理です。打てるかもしれないけど、走れません』と言ったんですけど『一応来い』って」。4月24日の阪神戦(ナゴヤ球場)、彦野氏が代打で登場するとスタンドは大歓声の大盛り上がりだった。ライト前ヒットを打った。「すぐに代走でしたけどね」。
ユニの着こなし、ハイカットのスパイク…変えた“スタイル”
だが、それで通用するほど甘い世界ではなかった。「足を使い切れないんで速いボールに差し込まれるようになって、対応できなかった。最初の何打席かはそれがバレてなかったんですけど、途中からバレて全く打てなくなり『2軍でもう1回やってこい』となりました」。この年の中日は最下位。彦野氏は再調整後の9月下旬に1軍に復帰したが、本調子には程遠い状況で“背番号8元年”は23試合、28打数3安打の打率.107、0本塁打、2打点に終わった。
怪我をしてから、ユニホームの着こなしも、ストッキングを膝下まで上げるオールドスタイルをやめた。「テーピングとかいろんなこともあるし、長くした方が、都合がいいだろうなってね。スパイクもハイカットに変えました。もう足の速さを売りにすることはできないと思ったんでね」。これまで普通にできたことや、当たり前にこなしていたことができなくなり、100%元に戻れないつらさはハンパではなかっただろう。それでも懸命に調整した。
「何とかできるかなって思えたのは、その翌年の途中からだったと思いますね」。1993年8月1日のヤクルト戦(神宮)では荒木大輔投手からホームランを放った。1991年6月18日の、天国から地獄の“サヨナラアーチ→代走”以来の一発だった。「神宮でしたよね。足に不安がなくなってはいないけど、恐怖心が薄れていったんじゃないですかね。小手先ではホームランってなかなか打てない。しっかり足がグッと使えるから振れるんでしょうからね」。
彦野氏はその8月だけで5本塁打を放った。もちろん、諦めずに練習に励んできたからなのは言うまでもない。「入院中はまず膝が90度に曲がるまでにどれくらいかかっただろうっていうくらいかかった。でも、それだけでは野球はできない。お尻につくか、つかないかくらいまで曲がってはじめてスライディングができるんでね。それを曲げるために全身麻酔をかけてペキッてやってもらったり……」。思い返せば、苦しい日々がよみがえる。
復調の兆しが見えてきた1993年8月。「そういうことが少しずつ、自信になって1994年を迎えたんですよね」と彦野氏が話したように、翌年はレギュラーに再定着して復活。勝った方がリーグ優勝の中日と巨人の最終決戦10・8にもスタメン出場するなど活躍した竜の背番号8は、カムバック賞を受賞することになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)