予期せぬドラフト指名「君の名前を出した」 30年後に知った素人の“推薦”

野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】
野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】

柏原純一氏は高校3年時のドラフトで南海に8位指名…進学が基本線だった

 野球評論家の柏原純一氏は、1970年のドラフト会議で南海に8位指名された。「指名してくれないかな、プロに入りたいなって願望はあったので、うれしかったですね。順位は何位でもよかった」。南海も含め、どこの球団が調査に来ていたなど、事前には全く知らなかったそうだが、この指名から30年以上経過して、新事実が判明した。見ず知らずの人のおかげで柏原氏のプロ入りの道が開けていたというのだ。

 1970年、八代東3年の春に、エースで4番、主将として甲子園に出場したが、開会式直後の第1試合で日大三(東京)に0-2で敗れた。柏原氏は2失点で完投したが、打線が4安打に封じられた。夏は熊本大会準々決勝で熊本一工(現・開新)に延長15回1-2でサヨナラ負け。春夏連続甲子園出場の夢は絶たれた。「最後はエンタイトルスリーベースで終わりました。藤崎台球場のローカルルール。ランナー一塁だったからサヨナラです」。

 地方ルールによって、打球がバウンドしてスタンドに飛び込んだ場合、通常のエンタイトルツーベースではなく、エンタイトルスリーベースとなるのは、わかっていたこと。「球場が広かったので、そういうふうになっていたんですよね。それまでピンチを何度もしのいでいたんですけど、最後、レフトに打たれて、バウンドしてスタンドに入って……。ホームランの方がよっぽどよかったですけどね。でも悔しいとかはなかった。ああ終わったって感じでしたね」。

 高校卒業後の進路に関しては「僕の選択肢は大学かプロ。社会人はなかった」という。とはいえ、プロはその段階でもあくまで夢。「指名してくれたらいいな」ぐらいに思っていたという。基本線は大学進学「大学は早稲田のセレクションに行きました。夜行(列車)で行ったけど、その時、風邪ひいてしまってね。お袋に電話して『もう行きたくない』と言ったけど『東京まで行ったのだから行ってきなさい』って言われて行ったのを覚えていますね」。

 他に明治大と法政大から誘われ「最終的にはこの2つのどちらかに行く可能性が高かったと思う」。そんななか、柏原氏は1970年11月19日に東京・日比谷日生会館で開催されたドラフト会議で南海から8位指名を受けた。「指名されるかどうかはまったくわからなかったので、とにかくプロにリストアップされたのがうれしくて、うれしくて。どこのチームが嫌とかもなかったし、(指名)順位も何位でもよかった」。

日本ハムスカウト時、野球好きのおじいさんに聞いた“衝撃事実”

 南海からの指名は予測していなかったし、スカウトが見に来ていたことも知らなかった。「選抜に出たけど、バッタバッタと三振を取ったわけでもないし、ガツンとホームランを打ったわけでもない。活躍していないし、騒がれてもいない。野手で見てくれたそうなんですけどね」。入団交渉もトントン拍子で進み、大学進学をやめて、南海入りを決めた柏原氏だが、この時のドラフト指名の裏話をそれから30年以上経ってから耳にしたという。

「僕が(日本ハムの)スカウトになったのは50歳を過ぎてからだから、それくらい経っていますよね。熊本の球場にスカウトとして高校野球を見に行った時、面識がなかった野球好きのおじいさんに『昔、南海スカウトの石川(正二)さんに“いい選手はいないか”って聞かれたから(八代東の)柏原って子は面白いですよって君の名前を出したんだよ』って声をかけられた。その情報があったから、スカウトは八代まで僕を見に来てくれたんです。その時、初めて知りました」

 当時は今と違ってスカウトの人数も少ない。情報を得るのもより大変な時代だっただけに「僕を推薦してくれた人の力は大きかったですよ」と柏原氏はしみじみと話す。「今でもそういう情報を活用しているスカウトはいると思いますよ。じゃないとわからないですよ。大きな大会に出ている選手はわかるけど、そうじゃない選手のことはなかなかわからないですからね」。

 もしも南海からドラフト8位指名されていなかったら、柏原氏の野球人生は変わっていたことだろう。それこそ、その見ず知らずの人の推薦がなければ「南海・柏原」も「日本ハム・柏原」も「阪神・柏原」も誕生していなかったかもしれないし、阪神・新庄剛志外野手を指導することもなかったかもしれない。かなりの時を経て、知った新事実。柏原氏にとって、それもまた感慨深いものになっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY