ぼったくられて30倍超の支払い 殴り合い、窓から入ってくる先輩…18歳新人が浴びた洗礼
52年前…梅田から難波へのタクシー代に3000円「お前はアホか」
プロ野球人生は“ぼったくり”からスタートした。野球評論家の柏原純一氏は1970年ドラフト8位で南海に入団した。新たな挑戦に気持ちも当然、高ぶったが、初めての“プロの世界”も“大阪の世界”も熊本育ちの18歳には面食らうことが多かったという。プロ1年目の1971年1月、到着早々の大阪駅での苦い体験、合宿所「秀鷹寮」での教訓、すさまじい先輩たちとの出会い……。柏原氏は笑いながら当時を振り返った。
「あれは(1971年の)1月5日か6日くらいだったかなぁ、自主トレに参加するため、熊本から夜行(列車)で大阪(梅田)に朝、着いた。学生服姿で荷物を2つ持ってね。だけど、そこから難波までの行き方がわからなかったんですよ」。球団からは「難波から南海電車に乗って(合宿所のある)中百舌鳥(なかもず)で降りるように」と指示されていた。「難波までは地下鉄があったんだけど、わからなくてね」。そこでタクシーで行くことにしたという。
「乗り場に行くと、タクシーの運転手さんが荷物を持って乗せてくれた。親切だなと思いましたよ。『難波までお願いします』と言ったら『わかりました。このタクシーは貸し切りだから3000円ね』と言われた。それほど時間もかからず難波に着きましたけどね」。そこから南海電車に乗って中百舌鳥へ。「合宿所で『大阪の運転手は親切に荷物まで積んでくれて3000円で運んでくれました』って言ったら『お前はアホか』って言われましたよ」。
柏原氏は苦笑する。「よく覚えていないけど、あの頃、梅田から難波まで90円くらいだったんじゃないかなぁ。でも、田舎もんだから、貸し切りならしかたないかなって思ったんだよね……。いやあ、大阪ってところはって思ったね。よっぽど朝早く、学生服を着て梅田駅に行って(その時の運転手を)つかまえようかって思いましたよ。そこまではしませんでしたけどね。まぁ、洗礼を受けましたよね」。
合宿所生活でもいろいろあったという。「僕らが入った頃は、ソックス1、ストッキング1、ベルト1、帽子1と一揃えは一応支給があった。ソックスとかはすぐ汚れるから新しいのを買うんだけど、洗濯して屋上で干して、ソックスに番号とか名前を書いていなかったら、なくなるんです。誰かに持っていかれるんです。そういう時代。それはちゃんと名前とかを書いていなかった僕が悪かったんだろうけどね」。
合宿所の部屋は1階…門限破りの先輩が窓を叩く
1年目の合宿所の部屋は、1階の一番奥。「先輩が門限を破って夜中に帰ってくる時、僕の部屋の窓から土足で入ってくる。コンコンと窓を叩かれて午前2時とか、3時にね。まぁ、それはまだいいけど、夏場は窓を開けた時に蚊まで連れてきて、眠れなくなるのはたまらなかったなぁ」と思い出し笑いだ。そんな先輩たちの中にも“すごい人”がいたという。
高知・大方で行われた春季キャンプ中のことだ。「ある先輩がキャンプの紅白戦で審判にストライクと言われて、三振。その後、その人が守りに行く時、審判に『あれはボールやぞ』って言った。審判が『いやストライクだ』と答えると『ボールやったやんか』って激高して殴り合いのケンカが始まった。キャンプの紅白戦で、だよ。もうびっくりしましたよ」。
ベテラン選手はキャンプ終盤になるまで練習量も少なかったという。「僕らは夕方5時、6時くらいまで練習しましたけど、ベテランの方は昼には上がっていた。アップしてキャッチボールして、バッティングして昼飯食って、パーッと帰る。そのままユニホームを着たまま麻雀をしていましたよ。それも『えーっ、そういう感じなの』って思いました。野村(克也)さんなんかも全然練習しなかったですよ」。
広瀬叔功外野手の練習にも驚いたという。「広瀬さんは天才ですよ。宿舎でバットを持って来て、ちょっとスイングして、その後、室内の電気を消せって言われたので消したんです。何をするのだろうと思ったら、音も何も聞こえなくなって、しばらくしたら『終わり』と言って帰られた。相手ピッチャーのフォームを想定。自分が振っていると想定して、それで終わりだったんです」。
まさに猛者の集まりだったが、シーズンに入ってエンジンがかかると、今度はすさまじい実力も見せつけられた。「フリーバッティングで野村さん、門田(博光)さん、高畠(導宏)さんは90%以上、ホームラン。野村さんはライナーで、門田さんはグワーン。高畠さんはきれいな放物線でね」。上下関係も当然のように厳しかった時代だが、プロの凄さも十二分に感じ取った。柏原氏にとって、様々なことを“勉強”させられる日々だったようだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)