怠慢走塁に激怒「ちょっと来い」 出血も泥をつけてひた隠し…ドラ8がしがみついた1軍

野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】
野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】

柏原純一氏は外野で南海入団も3年目から内野へ…1軍切符を掴んだ

 内野転向が転機になった。熊本・八代東時代、エースで4番だった野球評論家の柏原純一氏は、1970年ドラフト8位で南海に外野手として入団したが、2年目(1972年)に内野の練習を始め、3年目から内野手登録となった。ここから1軍のチャンスが巡ってきたが、ポジション変更は自らアピールしてのことだった。「2軍の練習中に勝手に内野を守ったんです」。それが古葉竹識2軍守備コーチの目に留まったという。

 柏原氏はプロ入りして2年間は1軍出場がなかった。「1年目は2軍でもあまり試合に出ていなかったと思う。2年目からちょっと出だしたかな」。1軍でのプロ初出場は3年目の1973年8月9日の日拓戦(大阪球場)だった。3回裏にレギュラー二塁手・桜井輝秀内野手の代走で出て、そのまま二塁を守り、6回裏にはプロ初安打、初盗塁をマーク。翌8月10日の太平洋戦(平和台)では7番・二塁でプロ初のスタメン出場を果たし、3打数2安打1盗塁と活躍した。

「9日の試合で桜井さんが怪我をして、僕に出番が来た。サードの藤原(満)さんと初めてダブルプレーを取ったんだけど、その時右手を突いて、痛めてね。血を流しながらプレーした。怪我したなんて言ったら落とされるから、泥をつけて血を隠してね」。ダブルヘッダーで行われた8月11日の太平洋戦にも7番・二塁でスタメン出場。第1試合は3打数1安打、第2試合は5打数2安打で9回表に太平洋・三輪悟投手からプロ初本塁打、初打点を挙げた。

「ホームランは(太平洋のレフト)ビュフォードのグラブに当たって、スタンドに入ったんだよね」。3年目の柏原氏は25試合に出場し、65打数18安打の打率.277、1本塁打、6打点、2盗塁。阪急とのプレーオフと巨人との日本シリーズはメンバー外だったが、翌年以降の飛躍につながるシーズンだった。その大きなポイントは、3年目から外野手ではなく、内野手登録となり、二塁を守ったことだった。

 内野転向のきっかけは柏原氏が自ら作ったという。「2年目(1972年)のファームのシートバッティング、当時は野手が少なくて、守るところが歯抜けになっていたんですよ。その時、セカンドが空いていたので、パーッとそこに行ったら、運良く打球が飛んできて、パッとさばいたの。そしたら(2軍守備コーチの)古葉さんが『明日から内野の練習もせい』って。しめたと思いましたよ。僕は外野が嫌で、本当は内野がやりたかった。できる自信もあったのでね」。

 そこから内野手の道が開けた。古葉コーチの指導も受け、守備力もさらにアップし、翌3年目から正式に内野手となった。そして桜井の怪我もあって、8月に1軍初出場のチャンスもつかんだわけだ。加えてもうひとつ。野村克也監督兼捕手とドン・ブレイザーヘッドコーチが推し進めた考える野球「シンキング・ベースボール」が柏原氏にはプラスになったという。

野村克也監督兼捕手とドン・ブレイザーヘッドコーチの野球に鍛えられた

「ある時、ファームの練習が雨で中止になった。昔は室内練習場とかなかったので、ミーティング。野球のルールのミーティングがあったんです。僕はそういうのが好きだったし、知っていることばかりだったけど、他の人はそうじゃなかった。えー、そんなことも知らないのって思いましたね。ファームのベテランの人もそうだったから、あ、これで何とか勝負できるなと思った。あのミーティングでも自信めいたものが出てきたと思います」

 そういう知識を駆使してのプレーが1軍でもはまった。「ブレイザーが僕を見いだしてくれたのもそういうところなんです。例えば走塁でサードに行ってアウトになると、ブレイザーは『お前、どうして走った』と聞いてくる。その時『点数差がこうで、イニングがこうで、ここは50%セーフになると思ってギャンブルしました』というと『OK』で終わり。『セーフになっていたら、点数が入る確率が跳ね上がるからお前はチームに貢献しているんだ』ってね」。

 学ぶことが圧倒的に多かったが、柏原氏にはそれがとてもいい刺激になった。「アウトになって、しまったって思うところで、それはいいんだって言われると(そのプレーについての)吸収力もすごくなりますよ。それで覚えるし、次のプレーにもつながる。ブレイザーはマイナス思考にならない。反対に安全運転した方を怒っていた。そういう野球を野村さんと取り入れたから、あの頃の南海は強かったと思います」。

 柏原氏はブレイザーヘッドコーチに怒られたことが1回だけあるという。「1死一塁でショートゴロゲッツー。しまったと思って足が動かなかった。そしたら『ちょっと来い』と言われて『お前は全力で走っていたのか』って。『走っていましたけど』って言ったら無茶苦茶怒られた。あの時は怖かったなぁ。足が重たくて走ってなかったのを見透かされていたんだよね。ブレイザーはそういう人。エラーをしても何も言わないけど、その後のバックアップのこととかはうるさく言ったりね」。

 柏原氏のプロ野球人生の基礎は、そんな時代に叩き込まれたものだ。それは野村監督率いる南海に入団したから経験できたことでもある。「もしも他球団にドラフト8位で入っていたら試合も出ず、結果も残せずにやめていたんじゃないかな」。そう思えるほどの好環境だったということ。実際にその後、野村監督との師弟関係もどんどん深まっていき、その教えによって、パ・リーグを代表する選手に成長していくことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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