トレード拒否騒動の末の新天地 外様だらけのハムで飛躍…楽になった「ウチは寄せ集め」
柏原純一氏は日ハム1年目の1978年に全試合出場、24HRをマークした
新天地で能力が開花した。1978年、南海・柏原純一内野手(現・野球評論家)は日本ハムに移籍した。一時は引退も辞さずのトレード拒否の構えだったが、恩師・野村克也氏に説得されて2月のキャンプ直前の1月下旬に了承した。プロ8年目、26歳になるシーズン。「ある程度、成績を残さないと“なんやねん、このガキは”みたいに思われる」と気を引き締めて臨んだ結果、全試合に出場し、24本塁打84打点。終わってみれば飛躍の年になった。
大騒動を経ての新天地。それも「行きたくない」との入団拒否からのチーム合流だけに、日本ハムナインの反応は気になったことだろう。だが、柏原氏はすぐになじめたという。「あの年、僕は多摩川での日本ハムの自主トレに1日しか行っていないんですが、その時にね、同い年の佐伯(和司投手)が近づいてきて『純ちゃん、純ちゃん、このチームはね、寄せ集めばかりだから全然気にしなくていいよ』って言ってくれたんですよ。あれで僕の気持ちは楽になりましたね」。
大沢啓二監督率いる日本ハムには確かに“外様”が多かった。声をかけてくれた佐伯投手は元広島だし、元巨人の高橋一三投手、元大洋の間柴茂有投手もいた。野手でも開幕1番サードの富田勝内野手は元南海、巨人。同5番DHの永淵洋三外野手は元近鉄だった。そんななかで柏原氏はキャンプ、オープン戦を経て3番一塁の座をつかみ、結果も出した。「南海の時と違って、守備位置がファーストに固定されたのも大きかったと思う」。
柏原氏は一塁手としてダイヤモンドグラブ賞を4度受賞したように守備力にも定評があった。「ファーストが下手だったら、ほかのセカンド、サード、ショートがイップスになる。過去にそんな例はいっぱいあると思います。でもワンバンとかをファーストがちゃんと捕ってやったら、そうならないんです。僕はワンバンを捕るのもうまかったと思いますよ」。そう言い切れるほど自信もあった。まして一塁固定となれば、さらにやりやすかったようだ。
移籍2年目の1979年も22HR、90打点…球宴で劇的アーチも
1978年4月1日、日本ハム移籍1年目の開幕戦の相手はロッテだった。1977年に南海監督を解任された師匠の野村氏が一捕手として移籍した球団であり、柏原氏にとっては、師と共に移籍を希望して、その願いがかなわなかった球団だ。舞台は川崎球場。日本ハム・柏原は3番一塁、ロッテ・野村は6番捕手でスタメンに名を連ねた。試合は日本ハムが7-3で勝利。柏原氏は5打数3安打1打点、野村氏は4打数1安打だった。
このロッテとの開幕カード3試合で柏原氏は13打数7安打2打点1本塁打と大暴れ。日本ハムでの活躍に弾みをつけるスタートなった。敵となった師匠との戦いの幕開け。「野村のおっさんがロッテにおられた時、僕のフリーバッティングを後ろで見ながら『こうやって、お前の後ろで見るとな、俺、文句言われるんだよ。何かお前が打ったら、俺が指導したって言われるんだよ』ってぼやかれたのも覚えていますね」。それも懐かしい思い出だ。
日本ハムで柏原氏はパ・リーグを代表する選手になっていった。プロ9年目、日本ハム移籍2年目の1979年は123試合、打率.285、22本塁打、90打点、18盗塁。オールスターゲームにも1978年に続いてファン投票で選出され、神宮球場で行われた第3戦では9回に巨人・新浦壽夫投手から同点ソロアーチを放った(試合は広島・山本浩二外野手のサヨナラ2ランでセ・リーグが勝利)。
まさに年々、成長していった時期。当時を振り返りながら柏原氏は「今思えば、やっぱり南海最後の年(1977年)に野村のおっさんとやったバットスイングとか、そういうのがねぇ」としみじみと話した。大阪府豊中市刀根山のマンションで野村氏に毎晩受けたスイング指導。一途に野球だけに打ち込んだあの頃を改めて思い出したようだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)