唯一の“敬遠球HR”はなぜ生まれた? 42年前の奇跡…周到な計算と相手を欺いた餌撒き

野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】
野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】

柏原純一氏は西武・永射保の敬遠球を左中間席に運んだ

 1981年7月19日、平和台球場で日本ハム・柏原純一内野手(現・野球評論家)は離れ業を演じた。西武・永射保投手が投じた敬遠球を何と左中間スタンドに運んだのだ。誰もが予想していなかった一撃は、当時も大いに話題となったが、それにしても、なぜ、こんなシーンが生まれたのか。いったい何があったのか。あの時、柏原氏はどんな考えで打席に入っていたのか。球史に残る“敬遠球ホームラン”にスポットライトを当てた。

 それは柏原氏のプロ11年目の出来事だった。7月19日の西武戦、2-0で迎えた6回2死三塁の場面だった。ここで西武ベンチは4番・柏原を歩かせることを選択した。1球目、2球目、永射は外角へ大きく外した。そして3球目だった。明らかに外角へのボール球だったが、それまでの2球に比べると、少し内側に入ってきた。柏原氏はそれを打ちにいった。巧みなバット術によって真芯でとらえた。高々と上がった打球は、そのまま左中間スタンドに飛び込んだ。

 敬遠球本塁打は巨人・長嶋茂雄内野手も1960年7月17日の大洋戦(川崎)で記録したが、それはランニングホームラン。敬遠球をスタンドまでかっ飛ばしたのは柏原氏だけだ。この裏には普段からの野球への取り組み方が大きく関係していた。「高校の時から、いろいろ計算しながらプレーするのが好きだったんですよ。例えばホームに走る時、捕手が構えた方に向かって走れば送球が背中に当たってセーフになる可能性あるとかを考えたり……」。

 相手の隙をつく。相手が嫌がることを思いつく。ずる賢く計算して1点を取りにいく。その確率の高い部分を絶えず求めていく……。柏原氏は、もともとそういうプレーを実行に移すことが大好きだったところに、南海時代に野村克也監督とドン・ブレイザーヘッドコーチによる考える野球「シンキング・ベースボール」も叩き込まれた。「敬遠の球をホームランしたときもネクストバッターズサークルの時から計算し尽くしていた」という。

「次の(5番打者)ソレイタは永射に、それまで12打数で9三振。全く打てないわけだから、もしもバットに届くところに来れば打とうと考えたんです。三塁走者がいるからサードはベースにくっつく。ピッチャーがアウトコースに投げるからショートはセカンドベース寄りに守る。ショートゴロを打ったら内野安打になるってね。もし凡打に終わってもソレイタがそういう状況だから打ちにいきました、という言い訳まで考えて打席に立ったんです」

とらえた3球目…1、2球目は「測っていました」

 柏原氏がそのまま一塁に歩いても次打者の打棒が全く期待できないから点は入らない。それなら、敬遠球を打つ方がまだ点が入るチャンスがあるのではないか。それを瞬時に計算していた。「そういうのを考えると楽しいでしょ」と柏原氏は笑う。しかも打席に入る直前に永射投手に、打席では吉本博捕手に対して“餌撒き”も行っていたという。

「前のバッター(クルーズ)が外野フライを打ってセカンドランナーがサードに進んだ。その時にピッチャーの永射がバックアップに来た。その時に『おう永射、オールスター頑張って来いよ、見とくからな』って声をかけた。それで知らんぷりしてバッターボックスに立った。その時から伏線を敷いていたわけですよ。そういうところから始まっていたんです。それで吉本が敬遠で立ち上がったでしょ、その時には『チェッ』って言ってね。これも三味線ですよ」。

 1球目、2球目はただ外されたボールを見送ったわけではない。「測っていました。バットが届いたら打ったろうって思っていましたからね」。もちろん、それも相手バッテリーに気付かれないようにしていたのは言うまでもない。もしも、あの3球目が大きく外れていたら、さすがの柏原氏もどうすることもできなかったはずだ。それが逆にわずかながら内側に来たから、打てた。準備をした上で相手が見せた隙を逃さなかった結果が仰天のホームランになったのだ。 

 舞台となった平和台球場には、その日、柏原氏の故郷の熊本・八代市から応援団が駆けつけていた。「でも、僕が打った時は、その人たちも(敬遠されると思って)あーあってお酒をついでいたらしいですよ」。まさに“身内”もびっくりの衝撃弾。「ホームランはたまたまですよ。狭い球場でバットの芯に当たったからね。考えてみてよ。外すのにフォークボールやカーブは投げないでしょ。真っ直ぐ1本でヤマ張れるんだからバットに届けばどうにかはなりますよ」

 1999年6月12日には甲子園球場で阪神・新庄剛志外野手が敬遠球をサヨナラ打にしたが、この時の打撃コーチは柏原氏だった。2人は師弟関係にあり“敬遠球打ち”も師匠から弟子に、しっかり受け継がれていた格好にもなったが、現在は申告敬遠制度が導入されており、もはや同じシーンはありえない。唯一、敬遠球をスタンドまで運んだ柏原氏の驚異の打撃はこれからもずっと語り継がれていくことだろう。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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