原因不明の痛み…開幕前から覚悟した戦力外「もう無理」 3分で終わった“最後の通告”

DeNAで活躍した須田幸太氏【写真:湯浅大】
DeNAで活躍した須田幸太氏【写真:湯浅大】

須田幸太氏は2016年に活躍するも、2018年オフに構想外

 DeNAで主に中継ぎとして活躍。2016年にチーム最多の62試合に登板し、球団初のクライマックスシリーズ(CS)進出に貢献した須田幸太氏がFull-Countのインタビューに応じ、2018年オフに受けた戦力外通告の背景を明かした。

 2016年に切れのある直球と精密なコントロールで23ホールド、防御率2.68の成績を残し、一気にチーム内での立場を確立。このまま勝利の継投を担うようになっていくかと思われたが、2017年は本来の投球を披露できなかった。23試合の登板に終わり、9ホールドこそ挙げたが防御率8.10と安定感を欠いた。

「うまくいかなかったですけど、2016年の成績もあったので、戦力外にはなりませんでした」。2018年が勝負の1年となるが、須田氏の心中は揺れていた。2017年から背中の痛みと戦い続けていたという。「2016年終盤の肉離れの影響で僕のパフォーマンスが落ちたと思っているファンの方もいましたが、そうではなかった。背中だったんです」。

 胸を開き、肩甲骨の可動域を利用して本来の球質を生み出していたが、背中の痛みもあって胸郭が思うように開かない。「球がいかないな、というのがずっと続いていた。MRI検査でも原因は不明。針、電気治療、マッサージ、整体、ヨガ……あらゆることをやったけど痛みは取れなかった。もう無理だなと思いました」。

 シーズン開幕を迎えても状態は変わらない。「スピードも落ちてしまい、これだったら(翌年の契約は)ないなと感じていました」。シーズンの大半を2軍で過ごし、1軍での成績は10試合で2ホールド、防御率7.59。9月に入ると“予想通り”に球団から連絡があった。

見据えていた社会人復帰…DeNAの引退試合開催の打診を断った

 9月4日、横浜スタジアムの応接室。球団幹部から「来季の契約はしません」と静かに伝えられた。「分かりました」と須田氏。球団側から「功績を称えて引退試合を用意しようと思います。いかがですか」と提案されるも「『大丈夫です。やりません』と即答しました。自分は大した成績を残したわけではなかったですから。3分くらいで終わって部屋を出て行きましたよ」。

 喧嘩別れ、ではなかった。DeNA入団前、2年間は社会人野球のJFE東日本に所属。1年目の2009年は都市対抗野球に出場できなかったが、須田氏は予選で敗退したチームから選出される補強選手としてHondaに加わり優勝に貢献した。翌2010年はJFE東日本で出場するも8強で敗退していた。心残りがあった。

「自チームで日本一になれなかった後悔があったので、プロじゃなくなったら社会人で続けるつもりでいました。だからベイスターズからの引退試合の打診を断ったんです。まだ野球を続けるつもりだったから。引退じゃないから」

 DeNAを戦力外となり古巣のJFE東日本に戻ると、復帰初年の2019年の都市対抗野球でいきなり優勝を達成した。須田氏は大会MVPに当たる橋戸賞を受賞した。それでもプロへの思いが再燃することはなかった。

引退発表したオフに再度引退セレモニー実施を打診「自分を見てくれていた」

「(未練は)ないですよ。背中を痛めた時点で、自分の球を投げられなくなった時点で無理ですから。僕はポテンシャルもないし、自分の100を出せて初めて1軍で通用したわけで、80じゃ通用しませんから」

 ただ、DeNAとの物語には続きがあった。古巣復帰から3年目のシーズンを終えた2021年12月に自身のSNSで現役引退を発表。これを受けて、再び“オファー”があったのだ。

「2022年のオープン戦で引退セレモニーをやりましょう、と言っていただいたんです。でも、チームを離れて3年も過ぎてしまったのでお断りさせていただきました。ちゃんと自分のことを見てくれていたんだと嬉しかったですよ。ベイスターズはちゃんと自分の引退式の場を用意してくれていたんです」

 引退セレモニーを2度断ったが、須田氏は今でもDeNAの試合の解説をしたり、元選手ならでは情報も発信したりしている。心からベイスターズを応援している。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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